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映画「キネマの神様」を見て思い出す撮影所から逃げ出したあの日のこと〜わたしの映画半生記。

松竹映画100周年記念作品で我が映画半生が甦る。

映画「バビロン」はハリウッド黄金期の映画界の光と影を描いた映画だが、山田洋次監督は、映画「キネマの神様」で日本映画界の今と昔をロマンと悲哀を込めて描いた。

映画「キネマの神様」と私の映画人生〜撮影所から逃げ出したあの日のこと。

原田マハの原作小説は読んでいた。
映画ファン×映画ライターの夢の有り様が描かれていて、面白かった。

それを山田洋次監督が映画の制作現場を舞台に改変したのは納得。

ただ前評判とレビューを観て、何となく予想がついてしまったのだけど、公開もまもなく終わるタイミングで劇場で観たのを昨日のことのように思い出す。

映画監督を目指し、助監督として撮影現場で働く若き日のゴウを菅田将暉。

彼の演技は良いが初監督作「キネマの神様」の撮影初日に転落事故でケガを負い諦める理由が浅くて感情移入しがたい。

撮影所近くの食堂の娘・淑子を永野芽郁の健気で天真爛漫な雰囲気がいい。

往年の美女優役の北川景子も良かった。

仲間の映写技師テラシン役を野田洋次郎もいい味出している。

ゴウは撮影所を辞めて田舎へと帰っていった。

それから約50年。

ぷつんと時が飛ぶ。

その50年こそが人生だろうに。。

かつて自身が手がけた「キネマの神様」の脚本が出てきて孫と改作。

現在のゴウは亡き志村けんの後を継いで沢田研二。のんだくれで共感性0。

このようには生きたくないという見本のよう。

死ぬ時に悔いが残ることは何だろう。

幸い、ゴウより30年以上若い私はあんな晩年になる前にやりたいことを実現したい

でも、ふと思う。

キネマの神様っているのだろうか?

映画の神様っているのだろうか?

あんな飲んだくれの無責任ジジイに映画の神様は微笑むのだろうか。

若きゴウが初監督作の初日、緊張のあまり、下痢が止まらず顔面蒼白、情緒不安定。

俯瞰ショットの演出をベテランカメラマンに諫められた位で心もぐらつき、落下して大怪我。

そして、その後の葛藤、逡巡も見えないまま、撮影所を辞めて、故郷に戻ると言う。

それが28歳だとして、それから50年。78歳のギャンブル狂で数百万の借金を反省もせず。

娘の会社には借金取りから電話が来ても、罪悪感も持たず。

娘に年金が振り込まれるカードを取り上げられて、映画館でふて寝から始まる再生劇。

きっかけは孫が見つけた幻となった初監督作「キネマの神様」の脚本。孫が現代風に改稿手伝い、運よく木戸賞(城戸賞がモチーフ)大賞で100万円賞金。

ちなみに私は後ほど語る映画プロデューサー時代に5年間、城戸賞の審査員をしていた。

ようやく長年迷惑をかけてきた妻への悔恨と感謝が溢れる。

逃げた先でも逃げ続けた彼が、自分で大した努力もせずに、手に入れた今際の際のラッキーパンチ。

それでキネマの神様が微笑むのなら、私も何か頑張ってみようかしら、と思ったりする。

実は、私も撮影所を逃げ出した人間だ。その後の人生を生きているからこそ、この映画への感情移入度は深い。でも、私が望むキネマの神様では無かった。

私は映画界から離れた人間。
でも映画においてやり残したこと、やらずして悔いが残ることは何だろうか。

キネマの神様の主人公ゴウは28歳で撮影所を逃げ出し、78歳で木戸賞受賞で人生の折り合いに納得を付けた。

私は今年で撮影所を辞めて10年、映画業界から離れて5年だ。

まだゴウが映画的自己実現をした78歳になるまで、だいぶ時間がある。

少し、自分の映画人生を振り返り、そして残りの人生でやり残して悔いが残ることを考えてみた。

小さい頃から映画が大好きだったかというと、そうでもない。

ただ建築家の父も音楽家の母も映画好きで、特に母は長年WOWOWで録画した映画を片っ端から観ていて、私より遥かに見ていると思う。

私自身が映画の虜になったのは社会人になってからだった。

慶應大学時代は、ヒップホップのダンスサークル(後輩に三代目JSOULの岩田剛典などがいる)で、映画よりダンスに夢中だった。

大学3年から国際政治のゼミ代表になり、同時に新聞研究所というマスコミのゼミに入った。

就職活動はテレビ局中心に受けたが受からず、キーエンスという平均年収全国1位と言われる技術系の企業に内定を受けて、沖縄に内定者研修旅行に行ったが逃げ出して、当時ベンチャーで売り出し中のCCCというTSUTAYAを運営する企業に就職。

新卒時に直営店の恵比寿ガーデンプレイス店に配属され、そこで映画を見まくった。

ウディ・アレンやビリー・ワイルダーにはまり、その後、キャメロン・クロウ監督の「ザ・エージェント」という映画に出会い、映画で飯を食うと決めた。

ちなみに「キネマの神様」よりもウディアレンの「カイロの紫のバラ」の方がスクリーンの向こうに入り込むロマンと悲哀に満ちている。

当時、CCCはディレクTVという放送事業を手掛けようとしていて、そこで番組制作に携わって、映画出資などもしたいと思っていたが、スカイパーフェクTVに敗れ、CCCは衛星事業から撤退した。

私はその後、CCCで直営店の洋画品揃え担当、店舗開発事業、セルDVDのマーチャンダイザーと務めた後、ここにいても映画業界に近づかないと思い、UCLAかNY大学の映画学科に行く為の資金作りの為、歩合率の高いコンサルティング営業の企業に転職した。

そこで3年間で700万程貯めたが、学生時代から付き合っていた彼女と結婚し、1年後、子供もできて、留学を諦めて、日本映画学校(現日本映画大学)に入ることにした。

息子が生まれて4か月で貯金はたいて学生に戻り無職。友人からは狂気の沙汰と言われ、女友達からは「私だったら速攻離婚するわね」と言われた。

コンサル営業をしていた時に住んでいた月18万の吉祥寺の新築マンションから月6万の川崎の中古アパートに引っ越した。息子が初めて立ったのは禿げかけた畳の上だった。ついてきてくれた妻には感謝してもしきれない。

日本映画学校では脚本・演出ゼミに入った。ビリー・ワイルダーのような人生の機微を描ける映画作家になりたいと思った。学内の長編脚本コンペでは200名程の学年で最終5作に残り、今は亡き巨匠の今村昌平監督や新藤兼人監督に読んで頂き、講評を頂けた。受賞作2作にはなれなかった。今、その2人はプロの脚本家として生きている。

私は目標を映画作家ではなく、映画プロデューサーに切り替えた。映画学校3年の時、「ミッドナイトスワン」や「全裸監督」の内田英治監督に「製作会社立ち上げるから、一緒にやらないか」と誘って頂いた。果たして家族を養えるだろうか。卒業制作を終えてから返答することにした。

卒業制作の撮影直前に小田急線のつり革広告で、東映が28年ぶりに芸術職という中途採用を行うという記事を見かけた。募集は脚本家・助監督・プロデューサー。慌ててメモり、ありったけの想いを履歴書と志望動機書に書き込み、プロデューサー職に応募した。

書類審査に通り、映画「半落ち」プロデューサーとの面接、脚本試験、役員面接、最後、今は亡き岡田裕介社長の社長面接を経て、受かった。応募者は1000名を超えていた。プロデューサー採用は私一人だった。

それから5年間、企画開発と製作の毎日。怒涛のように過ぎていった。

スクリーンの向こう側にいた憧れの俳優たちとも数多く仕事できた。

宮崎あおい、新垣結衣、小雪、波瑠、大泉洋、星野源、松田龍平、松田翔太、賀来賢人、佐藤浩市、西田敏行 etc...

宮藤官九郎や古沢良太と言った天才級の映画作家ぶりも間近に感じることができた。

大変だったけど刺激的な毎日だった。

しかし自身のオリジナル企画の実現には至らなかった。そこで岡田社長から撮影所のスタジオ営業への辞令が出た。左遷だ。

撮影所は本社企画部とは別世界だった。華やかさとは無縁の泥臭く閉鎖的な工場だった。直属の課長は銀座本社に一度も足を踏み入れたことのない、美術部上がりのたたき上げの職人だった。私は執拗にいびられた。9か月後、私はストレス性胃炎に、風邪が悪化し肺炎まで併発し、ここで夢を追いかけることはできない。と退職を決めた。

周囲からは東映の社員になれた幸運と、夢の工場に見える撮影所。私にとっては地獄だった。

「キネマの神様」でゴウが最後振り返る撮影所の入り口の風景。私も同じように鮮明に残っている。退職日にそのまま映画館に行って、映画を観た。「僕達急行」という森田芳光監督のロードムービーだった。旅にでも出ようかと思った。

しばらく映画とは離れよう。と思ったがCCCの時の先輩から、一緒に映画事業立ち上げないかと誘われた。

先輩が役員だった映画.comを運営する映画宣伝会社に入り、私は新規事業や映画WEB宣伝に携わった後、先輩の長年の夢だった映画館再生事業に取り組むことにし、神奈川のある街にミニシアターを立ち上げるプロジェクトに尽力した。

それから3年、映画編成マネージャーとして買い付け、番組編成を担当した。東映が逆にお客さんになり、国内大小100社近い映画配給会社と交渉できたのはいい経験になった。

しかし劇場ビジネスは予想以上に大変だった。とりわけ資金面で。映画館運営部門は先輩が本社から分離独立してどうにか運営していたが、市行政の援助も先細り、私に給与を払える状況ではなくなっていった。

私が退職した1年後、先輩の運営会社は倒産し、映画館は閉鎖。別資本の企業に引き継がれた。

そして私は映画業界を離れ、5年が経つ。今はリゾートコーディネーターの仕事をしながら、趣味でこうして映画レビューを書いている。

最近は完全にハマったKPOPライターになっているがそれが楽しくて止まらない。

映画業界に未練はないか。
やり残したことはないか。

無いと言ったら嘘になろう。

でも今、映画製作会社に転職したいとは思わない。

本当に心から溢れる映画的欲求が生まれるまでは、映画を趣味として存分に楽しむつもりだ。

映画ライターとしてやってみないか、と媒体から言われることもたまにある。でも今は好きな映画を好きなように自由に書きたい。

東映の同期の助監督2人は、2人とも映画監督デビューした。半年に一度くらいオンラインで映画語りをしたりする。

2人とも今でも、一緒に映画を企画しようと言ってくれてありがたい。

78歳のゴウのやり残した夢と人生の折り合いと決着。

私にとっては何だろうか。

私は今何よりも大切なのは家族だ。

私の無謀な挑戦を共に楽しんで、笑ってくれた妻。本当に苦労させたと思う。これからの人生は彼女に恩返しをしたい。

ちなみに妻の大学の卒論は、’山田洋次映画と家族’ で何だか不思議な縁だ。その後、ダンスのインストラクターとして自らも夢を追った彼女は、その卒論は絶対に見せてくれない 笑

長男は、今は大学2年で我が家から離れ一人暮らし、バンドサークルに国際交流に忙しそうだ。

空想が好きで繊細な次男は、昨年、高校を辞めた。過敏性腸症候群を患いながら通信の学校でイラストレーターを目指している。

これから死ぬまでに絶対悔いが残るとしたら、家族を不幸せにすることだ。

だから、何をおいても、家族が一番だ。

その上で、残りの人生、映画にまつわる全てを存分に楽しんでやるつもりだ。

映画プロデューサー時代の面白い様々なエピソードは一本の物語にしようと思っている

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