見出し画像

行政が設置する第三者委員会を疑う。日本的組織論の意味と国際競争の展望

先日、神戸市がいじめ問題で第三者委員会を設置したことに対し、「ムダ金つかって第三者委員会を組織した。」と述べた。
神戸市の場合は、裁判所でいじめが認定されているのに、第三者委員会を設置したとんでもない税金の無駄使いで、もう、これは明らかにおかしいと考えている。

それで、最近、やたらと行政が第三者委員会という組織を目にする機会が多くなった。こういうのは、本当に日本的。

過去記事で、内部統制が出来ない日本の企業の問題点を取り上げた。
日本は、神戸製鋼や三菱電機のような大企業でも、業務が属人化して重大な品質不正を起こしてしまった。最近も日本製鋼で品質不正が発覚した。少し前には、日本製鉄が東京湾に汚染水を垂れ流していたことが問題となった。いずれも歴史のある大企業ばかり。これは、人的というより、業務的内部統制が出来ていない事案。

日本を代表するような大企業なのに業務をシステマティックに統制できていない。そして、この記事の論点であるが、組織の中で人をシステマティックに統制できていない。一部の大企業では、人事部の採用担当者が女学生をレイプしてしまったりしている。これだけ大企業や行政で問題が起きているということは、個々の企業の問題というより、日本的なものの中に問題があるのではないかと考えるのが論理的だろう。

それで、このような問題を、「第三者委員会」という切り口から考えてみたい。
ようするに、何が言いたいかと言うと、組織に自浄作用がないということ。組織論として、第三者委員会を設置すること自体が、組織を内部統制できてない証拠なのだが、それがあたかも正しいような印象を与えていて、ニュースを見ている人も、そう受け取っている。

これは明らかにおかしい。

もちろん、それによって、少しでも組織が改善されるなら、あった方が良い。これはそう思う。なので100%否定しているのではない。

組織論として、内部統制の論点として、本質論として、今語っている。

つまり、組織として自浄すべきところを、外部に自浄を委託してしまっているため、組織として内部統制すべきという問題が先送りされているだけなのである。

そもそも、神戸市に関しては、裁判所がいじめと認定しているのに、第三者委員会を組織しているので、全くの意味不明。組織に本質論がない。
本来、第三者委員会は、裁判沙汰になる前に、組織として自浄しようという意図で設けられるものなのでは?

ようするに、わたしの言いたいことは、そもそも、第三者委員会を作ってしまうことで、組織の自浄作用(内部統制)がいつまでたっても働かないのではないか、ということ。

日本は、ベネディクトも指摘しているような縁故社会で、組織の自浄作用が働かず、結局のところ組織が硬直化してしまっているまま、グローバル競争に突入してしまった。

小泉内閣は金融ビックバンによって、縁故的な護送船団方式を潰して、既得権社会をスリムにすることを企画したが、結局、20年以上経った今も、大してスリム化されることはなく、国際競争でボロ負けしている。
考えてみれば当たり前の話なのである。
日本は、業務も、組織も、まるで内部統制しようという文化がないのである。

したがって、「第三者委員会」という意味不明の制度を、日本的な組織文化の象徴と捉え、これを見直すことによって、翻って、組織論を考え直す機会とすべきではないかと思う。要するに、日頃から、縁故や職人的感性によらず、システマティックに組織を統制すべきという話である。

または、これこそが日本文化だと開き直って、グローバル競争を止めて、とっとと鎖国してしまうかである。
わたしはいつも言っているが、日本はもう鎖国に近い形で行かなければ、かなり厳しい状況に追い込まれると考えている。

なぜなら、まともな国々は、しっかりと組織も統制して、スリム化する知見を備えている。
日本は、武士道精神をもったまま、グローバル競争に突入しているが、これは、まさに、日本刀(銃剣)でマシンガンに挑んでいくようなもので、考えたら無茶苦茶な話だと分かるはずなのである。

以上です。


記事の中で言及した過去記事はこれです。


この記事が参加している募集

最近の学び

人事の仕事