メノンのパラドクスと探究する学び
プラトンの『メノン』は、探究する学びにおける対話の必要性について、重要な示唆を与えてくれます。
対話とは互いに手探りしながら着地点を探るコミュニケーション
メノンは、自分自身を優秀であると自覚している青年です。話は、そのメノンがソクラテスのもとを訪れて、徳について質問するところから始まります。
メノンは、「徳は教えられるものなのでしょうか?」と、ソクラテスに教えを請いますが、それに対してソクラテスは、「私は徳についてまるでぜんぜん知らない」と答えます。知らないものについて、教えられるかどうかを判断できないというのです。さらには、徳について知っている者に出会ったことがないとさえ言います。その答えにメノンは納得せず、「徳が何であるかさえ知らないというのは本当なのか?」と食いさがります。
そこで、ソクラテスは、「徳が何であると主張するのか?」と、メノンに徳の定義を要求します。
そこから、ソクラテスとメノンの対話が進展していき、やがて、メノンが徳について未だ無知であることが明らかにされていきます。メノンはソクラテスとの対話を通して、「知っていると思い込んでいたことを、本当は知らなかった」という気付きを与えられるのです。
ソクラテスは、徳について未だ無知であることを自覚していながら、メノンとの対話を通して徳の本質を探究していきます。ソクラテスもまた対話によって学んでいくのです。
メノンとソクラテスの対話は、お互いにゴールを知らないまま、手探りで進みますが、同時に発見的でもあります。このことは、学びにおいて他者との対話的コミュニケーションがいかに重要かを教えてくれます。
探究のパラドクス
議論はその後、「探究のパラドクス」へと発展します。
ソクラテスは、「徳とは何であるかを君と探究したいのだ」とメノンに伝えます。
それに対してメノンは、
「あなたは、どんなふうに、それが何であるか自分でもまったく知らないような「当のもの」を探究するのでしょうか?」
「あなたは、自分が知らないものの中で、どんなところに目標をおいて探究するつもりなのでしょうか?」
「当のものに、望みどおり、ずばり行き当たったとして、どのようにしてあなたは、これこそが「あの当のもの」であると知ることができるのでしょうか?」
と、知らないものを探究することは不可能ではないかとソクラテスを問い詰めます。
それを聞いてソクラテスは、
「人間には、知っていることも知らないことも、探究することはできない。知っていることであれば、人は探究しないだろう。その人はそのことを、もう知っているので、このような人には探究など必要ないから。また、知らないことも人は探究できない。何をこれから探究するかさえ、その人は知らないからである。」
とメノンの質問を言い換えます。
見せかけと丸投げ
知っていることも知らないことも探究できないという説明は、授業について重要な示唆を与えてくれます。授業では、往々にしてわかりきったこと、既に知っていることを答えさえ、学んでいるかのように「見せかけ」ている場面に出会います。そこに探究がないことは明らかです。また、個別最適な学びを目指して、子ども個々に課題を設定させる実践を見かけるようになりましたが、未だ知らない子どもたちへの「丸投げ」状態に陥っている場面も見かけます。結果、浅い課題や的外れの課題がつくられ、やはり探究は生まれません。
実際の教室では、「全く何も知らない」、あるいは、「既に全てを知ってしまっている」状態の子どもはいないでしょう。一部は知っているけれども糸口さえつかめない、あるいは、浅い理解の段階で分かっているつもりでいるけれども腹に落ちるまでには至らないといった子が多いだろうと思います。こうした現状にもかかわらず、十分な知識をもたない子に無理に課題設定させ探究をさせようとしたり、分かったつもりで満足しきっている子に探究させようとしたりといったことが、教室で起きている現実なのだろうと思います。
対話的コミュニケーションが学びを生起せさせる
さて、ソクラテスは、召使いの少年一人を相手に、知らないことも対話によって探究可能であることを示します。この召使いは、幾何学についての知識を持っていません。
ソクラテスは、召使いに対して、1辺が2フィートの正方形を提示し、その面積を問います。召使いはソクラテスとの対話に導かれ面積が4平方フィートであることを理解します。さらにソクラテスは、召使いに1辺がその2倍の正方形の面積を考えさえ、元の4倍の16平方フィートであることの理解を導きます。
次に、ソクラテスは、面積が2倍の正方形の1辺は、何フィートになるかと召使いに問います。自然数の概念しか持たない召使いは、正しく答えられず、元の2倍の長さであると答えます。そこでソクラテスは対角線を使い、面積が2倍のとなる正方形を1辺の長さを求めることができることに気付かせていきます。
この場面でソクラテスは、答えを教えて学習させるのではなく、対話を通して学び手の中に答えに至る道筋を想起させることにより、知らないことも探究することが可能であるとを証明します。この事例からも、学びには他者が必要であり、対話的コミュニケーションが学びを喚起することが読み取れます。
ただし、ソクラテスと召使いの対話は、かなり強引であり学んでいるというより、学ばせているという表現が当てはまるように思えます。また、ソクラテスの言う想起説は、魂の普遍性にもとづいたものであり、もちろん科学的根拠はありません。それを差し引いても、学びにおける他者との対話の重要性は変わらないでしょう。
ソクラテスが召使いに対して行ったのは、問題を提示し、相手の理解の不十分さ(未知)に気付かせ、解決の足場を準備したことです。それを教え込むのではなく対話によって導いたのです。教師が行う授業行為と同じですね。
召使いから見れば、未知の対象と出会い、ソクラテスという他者との対話を通して、対象と自己との対話を経験し、学びを成立させたということができます。
一方、召使いは自分の中に十分な問いがないまま、ソクラテスによって「学ばされた」ということもできます。子どもたちにとって探究のある学びを実現しようとするならば、まず、個々の中に十分な問いを喚起するところから始めなければならないでしょう。
さらに言えば、ソクラテスは既に知っている者であり、召使いは未だ知らない者です。その両者の対話は真の対話といえるでしょうか。
メノンとソクラテスは、ともに未だ知らない者同士の、いわば協同探究者の関係でした。よって、お互いに手探りでゴールを目指すことが可能であり、対話が成立しています。一方、ソクラテスと召使いは、協同探究者ではありません。問答は行われていますが、真の対話と呼ぶことはできないでしょう。これもまた、ソクラテスから教えられたことだといえます。
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