【灰かぶりの猫の読書案内】(1)「『知らないことが』と『あたりまえのこと』~茨木のり子と倉橋由美子~」
詩人の茨木のり子さんと言えば、もっとも人口に膾炙している詩の言葉は、
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
でしょうか。
詩集『自分の感受性ぐらい』(花神社)に収められている六連の詩の最後に、重石のように置かれたのがこの言葉です。叱咤とも、鼓舞とも、激励とも、様々な捉え方が出来る詩ですが、人生を一直線に貫くような透徹した思想が息づいているように思えます。一方、これから引用する詩のように、とても温かで、柔らかなまなざしをも持っていた詩人でした。
詩の中の戦場とは何も、過去の戦場や、現在のロシア、ウクライナ、またガザ地区だけを指すものではないでしょう。むしろ、日常のいたるところに戦場はある。そう言い切っても良いように思えます。
一方、十代の頃に読んで、そのレトリックに度肝を抜かれた小説家が、倉橋由美子さん。『妖女のように』(新潮社)所収の「妖女のように」の冒頭、普通の小説と思い、油断してページを開いてしまうと、一瞬にして蛇のようにのたうち回る文体に絡めとられ、読み終えるまで逃れることは出来ません。
こんな文章の小説を読んだのは、その時が初めてでした。
その倉橋さんには『あたりまえのこと』(朝日文庫)と言う、小説にまつわる文章をまとめた作品があります。目次は「小説論ノート」と「小説を楽しむための小説読本」の二部に分かれ、終始、舌鋒鋭いどころではなく、絶対零度のアイロニーが効いた、真剣で居合抜きをしているような文章が綴られています。
例えば、純文学を生産する「文壇」について刀を振るった『小説の現在――「第二芸術」としての純文学の終わり』の一文。
これは前段です。
この後に、情け容赦なく、文学または小説の現在(それはまさに令和6年現在でもありますが)について、作者と読者を資本主義のまな板の上に乗せた上で、文学や小説に対する憧れや夢、希望を、ことごとく中華包丁で断ち切るように綴り、作家の未来へと思いをはせています。
――『知らないことが』と『あたりまえのこと』。
まるで、対をなすような本のタイトルですが、どちらも読んで損はないと思います。おっと、本に損得を持ち込んではいけませんね。茨木さんのような時折優しいお姉さんに見守られながら、氷の女王の倉橋さんが綴る文学の悪夢を見るのも、たまには良いのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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