自分が植物だとして。

自分の事を、少し離してみて見る。
客観的な視点で。
自分が育てている植物だとして。

どんな風に育ってほしいだろうか?
どんな風に育てるだろうか?

栄養たっぷりの土、お水をあげたり、太陽に当てたり、
大きく元気に育ってほしい、きれいな花が咲いてほしい、と思うだろう。
日々、目を向けたり、想いを向けるだろう。
声をかけるだろう。
花が咲いたら、きれいやね〜と喜ぶだろう。
褒めてあげるだろう。

同じように、自分という存在に接してみる。
育てる感覚で。

自分という存在のことを、身体も含めて、
自分のもの、これが自分だという強い思いから、
扱いが悪くなる。
悪いとこばかり目についたり、
嫌な気分になるような言葉をかけていたり、
我慢したり、大切にしなかったり、休まなかったり
栄養のある食事をしなかったり、してしまいがち。

きっと、それでは、
元気もなくし、きれいな花も咲かないだろう。
どんな植物だって、どんな野菜だって、どんな動物だって
元気がなくなり、病気になってしまうだろう。

みんなおんなじ。
生命のなかに生まれた存在は、皆おんなじ。
自分も自然の、生命の一部。

ひとつ生命から与えられた、身体。
今回与えられた、私という存在。生命体。
それぞれの人が、ひとつずつ与えられた私という存在。

どれだけ、ひとつ生命と共に生きることができるか?
生命を輝かせることができるか?
生きている今、実感できる今。

今、という時と場は、
私と一体なのだな。
私は、今、という時と場から、
離れることもできないし、離れたこともないのだ。
今、という場と私は一体なのだ。

生命と生命体でひとつの私。
自然の法則のなかで生み出された私は、
自然の理から離れれば離れるほどに、不調和となる。

生命から想いが離れるほどに、道から逸れていき、
分離してバランスを崩す。
個人として捉えることで、分離し、
その想いのアンバランスは、結果、現象として現れる。
心身の不調、病気、経済、仕事、家庭、人間関係など、
現実の不調和として現れる。

自分の全てに不調和が現れている時、
何が原因なのかわからなくなっていると思う。
何から変えたら良いのか、、
食を変えるのか、何かを辞めるのか、
意識を変えるのか、考えを変えるのか、
仕事を変える、人間関係を辞める、、
現れている表面上のことは、たくさんありすぎるし、
その方法もまた世の中に溢れている。
複雑に見えるこの世界。
方法はどれでもいいし、なんだっていい。

自然はシンプル。
根源的なことが変わらなければ、
結局形を変えて不調和が現れる。

根源的なことは、
自分という存在は、生命と身体とひとつで生きている存在だということ。
見えない源、生命により成り立つ、目に見える世界。
あらゆる万象万物は、目に見えない源により顕れ、
常に一体となって存在している、とうこと。

ただ、今の自分は、
自然の理から離れたから、不調和な結果が顕れてるんだな、と素直になってみる。
目に見えない生命と、目に見えるこの身体と合わせて
私なのだなと。

元々の本来の自然、自分に戻ろうと決めてみる、と
そっちに向かい始める。
自然、調和する方へ向かい始めると、
たくさんの気づきを得る。
自然に戻るための気づきがどんどん得るようになる。
すると、どうしたらよいか、
何をしたらよいかなどのアイデアも必要な時に得られる。
自分にとって最善な方法も直感的にわかるようになる。
そして、それをやってみる、行動に移していく。

一般的にこれがいい、この方法が効く、というものとは
違うことは多い。
自分にとって良いと感じること、を選んでやっていく。

些細なことから、勇気のいることまで、
それが、来た時、やると決めてやってみる。

すると、ひとつひとつの不調和をなんとかしようとしなくても、いろんなことがすっと問題ではなくなってくる。
客観的に全体が見えてくる。
物事を解決しようとしなくてもよいとわかる。

自然は、自分で問題を解決しない。
目の前のことを真正面から向き合い、
受け止めて、感じたことを行動に移してみる。
そうしようと、決める。
大きな問題なら、覚悟する、肚を括ることも必要になる。
受け止めて、動いてみる。
すると、その時必要なことが自然とわかったり、
自然としたことが、結果とてもよかったり、
調和する方に動いていく。
自然は、そのように流れていく。

小さなことも大きなことも、
この同じことの繰り返しなのだな。

方法が問題を解決するわけではなく、
しあわせにしてくれるのではなく、
自分の想い、なのだと思う。



美鶴 mitsuru.🌈





みんなが、しあわせでいられる場を作って行けたらと思っています。どうぞよろしくお願いします。