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「アメリカの臨床薬剤師に憧れて、生命保険の営業職に」橋本社長インタビュー(2/4)

みなさんこんにちは、てまりノートです

このnoteでは、てまりグループで働く「人」にフォーカスを当て、私たちがどのような想いを持って仕事をしているかを発信していきます。

前回(第1回はこちら)に続き、弊社 代表取締役社長 橋本昌子 のインタビューをお届けします。
生い立ち〜現在に至るまで、「どのような想い」で歩んできたのかを、インタビューしました。(全4回にわけてお届けします)

橋本昌子(はしもとまさこ)
てまりグループ 株式会社スパーテル 代表取締役
薬剤師として、病院、製薬会社、薬局に勤務した後、2007年に株式会社スパーテルを設立。「日本一親切な薬局」を目指して、「てまり薬局」を展開。グループ16店舗を運営。2011年に福祉事業部を立ち上げ、住宅型有料老人ホーム「ひなの家」を運営。

薬剤師 / 金沢大学大学院医薬保健学総合研究科・博士(薬学) / 介護支援専門員 / 石川県中小企業家同友会 特別理事 / 公益社団法人石川県薬剤師会 副会長 / 金沢大学非常勤講師 / 北陸大学非常勤講師

PROFILE



新卒で総合病院、薬剤師会の事務所、外資系の製薬会社、生命保険、薬局の立ち上げ……自分がやりたいと思ったことを片っ端からチャレンジ


ーー新卒で入社した総合病院の勤務経験について教えてください
病院に勤務して、自分自身の考え方がガラッと変わりましたね。まだまだ勉強が足りないと痛感しました。

当時の薬学部は実習がなかったので、就職して初めて薬の商品名を知ったんです。大学で習うのはあくまでも一般名で、実際に薬局の棚に並んでいる薬は全く知らないものでした。まずそこから覚えなくてはならないし、調剤も勤務中にその場で習う状態。

「これではいけない」と思い、毎朝7時に職場へ行き、朝の準備をしたあとに1時間の自己学習をすることにしました。病気や治療のことなど、大学では学ばなかったことを中心に勉強しました。

そんな中、ある日専門雑誌を読んでいたら、アメリカでは臨床薬剤師が存在することを知り「これになりたい!」と思ったんです。勉強を通して、目標ができたんですね。

その頃の私は積極的に色んな場所へ顔を出していたので、看護師や他の病院の薬剤師を誘って勉強会もよく主催していましたね。

自己研鑽を通じて目標が出来、色々なことをしているうちに珠洲市ではなく金沢市でもっと勉強したくなり、金沢に行くことを決めました。

ーー金沢ではどのような会社に就職したのでしょうか?
新卒で就職した時と同様、薬剤師の就職先は本当に少なく、病院くらいしか働く場所がありませんでした。でも、病院は誰かが辞めない限り入職出来ず、本当に困りました。

そんなある日、現在私が役員をしている「石川県薬剤師会」の職員の求人を紹介してもらいました。薬剤師の資格保持者の募集だったんです。

「薬剤師会なら、様々なことを勉強できる!」と思い、薬剤師会への入職を決めました。

ーー薬剤師会へ転職したんですね。そこでの仕事内容や、学んだことは何でしょうか?
薬剤師会の事務所には2年間勤務したんですが、保険医療・漢方薬・調剤・処方箋の点数や仕組みなど、本当に色んなことを学びましたね。

当時では珍しい「PCを活用した事務」を経験しました。今ほどIT技術が発展しておらず、ワープロで一枚の文書を作成するのに夜通しかかることもありましたが、おかげでブラインドタッチが身に付いて事務処理能力が格段に上がりました。当時、私の年齢でブラインドタッチができるのは珍しかったと思います。

この時の経験のおかげで、後々パソコンを使った業務もスムーズにできました。

とはいえ、仕事自体は結構余裕があったので、「何かしなくてはと」思い、簿記の資格と情報処理技術者資格第二種の資格を取るべく学校に通いました。

他にも、中小企業診断士の通信教育を受けたり、自己啓発の講座を受講したり、自分がやりたいと思ったことに片っ端からチャレンジしていきました。自分の興味がある方向へ進んだこの経験は今につながっていると感じます。

ーー2年間で本当に色んなことを学んだんですね
はい。様々な経験をさせていただきましたが、薬剤師会の事務職は給与がものすごく安かったんです。

当時、世間はバブルで浮き足が立っていたけれど、私は貯金を切り崩しながら生活していました。自分の生活のことも考えないといけないと思い、新聞の求人を見ていたら外資系製薬会社が金沢営業所で薬剤師を募集していて、そこに入社を決めました。

ーー大学生の頃に興味があった製薬会社で働くことになったんですね。今までの専門職から、やったことのない領域にチャレンジしていますね
はい、いわゆる「外資系OL」というのを経験しました。それはもうひとつのチャンスというか、タイミングよく入れましたね。

管理薬剤師というポジションですが、職種は事務職でした。もともと事務職はやりたくなかったんですが、まずは経験だと思って働きました。

電話の取り方や受け答え、文書ファイルの作り方、英語文献の読解など初めて習うことばかりで鍛えられましたし、ここでの経験が後々ものすごく活きました。

ただ、勉強にはなったけれど、だんだんと事務職では物足りなくなり、「営業がやりたい」という気持ちが大きくなっていきました。

ーーなぜ営業がやりたかったのでしょうか?
臨床薬剤師になるためには「自らの考えを伝えて、相手を動かさなければならない」と思ったからです。自分にそういった力が備わっていなかったので、営業経験が必要だと思いました。

上層部に事務ではなく営業をしたいと伝えましたが、却下されてしまい……結婚・妊娠したタイミングで製薬会社を辞めました。

辞めた理由はそれだけではありません。当時、同じアパートに日本生命のセールスレディが住んでいて、その方から職域支部という個人宅ではなく企業・法人をまわる部署があるという話を聞きました。

新卒の女性を採用するような教育制度が整っている部署で、営業が学べると思ったんです。

正直、それまで生命保険にはあまり良いイメージがなかったのですが、「この部署なら良いかも」と思い日本生命に入社しました。

ーー生命保険会社での営業はどのようなものだったのでしょうか。
そもそも「なぜ営業職をしているのか?」というと、「自分が薬剤師として新しい道を開きたい」という思いが根底にあったんです。
そんな思いで飛び込んだ環境でしたが、営業のイロハを教えてもらいましたね。
担当として与えられたのが、大学の医学部・病院でした。おそらく私が薬剤師だったので任せてくれたと思うのですが、仕事もお客様も自分に合っていてとてもよかったです。

入社前は保険営業=強引にでも契約を取るというイメージがありましたが、実際はそんなことありません。

こまめにコミュニケーションを取ったり、その人のライフプランに合わせた提案をしたり。自分が作成した資料を毎日100名に配っていた時もありましたね。

相手を思って営業していると、必要になった時にお客様の方から声をかけてもらえるんです。そうこうしていたら、お客様に信頼してもらうことで成績も上がっていきました。

そのうち2人目の子供が産まれ、マンションを購入し、生活に変化がありました。そこで、3年間勤めた日本生命を辞めて自宅近くの病院に就職します。

ーー再び病院に戻るんですね。今度はどのような病院で何を学んだのでしょうか?
私が憧れていた病棟業務や臨床薬剤師など、全国的にまだやっている人が少ない先進的なことを取り入れている病院でしたね。

輸液の調整や注射薬の調剤、在宅医療など、当時はどこもやっていなかった業務を経験したいと思って入職しましたし、ここでも様々な経験を積むことができました。

時代の流れもあり、勤めていた病院で医薬分業するという話がでました。そこで一旦病院を退職し、薬局を立ち上げることになりました。

ーー薬局の立ち上げに抜擢されたんですね!
次々と薬局を開業しました。当時では珍しく在宅医療の分野にも進出し、私は薬剤師として患者様の自宅やグループホーム、特別養護老人ホームに訪問していました。

薬局長、病棟業務、先生とのカンファレンスなど、13年間で多くの経験をさせてもらいました。

ーーものすごく先進的な職場だったんですね。
そうですね、新しいビジネスモデルにチャレンジする職場でした。

様々な取り組みはもちろん、毎年必ず学会で発表していましたし、学術的なことにも力を入れているグループだったと思います。

薬局の立ち上げ以外にもグループ全体のリスクマネージャーの役割を与えてもらいましたし、その頃にケアマネージャーの資格も取りました。

今やっている全てのことを、この時に学びましたね。

第3回につづく:続きはこちら


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・インタビュアー   ー T.A(Square,Inc.)
・ライター      ー MINORI TEJIMA(Square,Inc.)

取材・構成


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