【サバの日】鯖街道をたどるだけでサバ定食が誕生する
結論
鯖街道は福井県若狭湾から滋賀県を経由して京都へつながる重要なルート
京都へ海の幸、福井へ京文化が伝わった
焼き鯖に加工してから都へ運び、道中で独自のサバ料理が誕生した。
3月8日はサバの日
語呂合わせから、青森県八戸市、鯖の加工など鯖に関わる事業を手がける株式会社鯖やによって制定されました。
農林水産省の海面漁業生産統計データによると、日本では、サバ類がマイワシ類に次いで2番目に水揚げ量が多いです。
サバは、脂がのって焼くとジューシー、煮つけにするとホロホロで美味しく、個人的に好きな魚1位です。サバの美味しい街に行って、サバを食べることを第一の目的として、青森県八戸市、宮城県石巻市に行ったことがあります。両市ともサバをブランド化しており、八戸市は、「八戸前沖さば」、石巻市は「金華さば」と呼ばれています。八戸市にある「サバの駅」というお店で食べた串焼きは忘れられません。パリッ、ジュワーがサバで味わえるのは衝撃でした。八戸市、石巻市でサバを食べた話は、こちらをお読みください。
今回は、福井県から京都府につながる鯖街道について紹介します。
なぜ、福井から京都へサバを運んだのか?
北前船、鯖街道による京都と日本海側との交易がさかんだったから
現在の鯖街道は、若狭街道を指します。若狭街道は、若狭湾に面している小浜市から滋賀県の西側の谷間を入り、三千院で有名な大原経由で京都へつながる道です。小浜市~若狭町三宅信号機間は27号、三宅信号機~滋賀県高島市今津町保坂信号機間は303号、保坂信号機~京都市大原を経由、京都市出町柳は国道367号に相当します。
鯖街道は、海から遠い都へ海の幸を届けたり、京都から仏教文化重要な輸送ルートでした。さらに、小浜市は、日本海側の主要な物流ルートだった北前船の寄港地でした。若狭湾では、サバが豊富にとれ、サバの輸送の割合が最も高かったことから、鯖街道と呼ばれるようになりました。
サバは痛みやすく、アニサキスという寄生虫がいるため、特殊な処理をしなければ、生では食べられません。現代のように、スピーディーかつ冷やして運搬することが難しかった時代は、しめ鯖や焼き鯖など加工してから都へ運ばれました。そのため、現在もその名残が郷土料理に見られます。
鯖街道で開発された、ご当地グルメ
焼き鯖
小浜市では、サバ1尾をまるごと開いて竹串に挿してから焼いて保存性を高めていました。食べるときに、生姜醤油につけます。運ぶことで日持ちが良くなります。焼き鯖を酢飯の上にのせたものが焼き鯖寿司です。
へしこ
福井県の郷土料理。重石をのせて漬け込むことを「圧しこむ(へしこむ)」といった説、ぺしゃんこが名前の由来とされています。元々は冬の保存食として作られました。春にとれるサバを塩漬けしてから糠漬けし、1年ほど発酵します。
糠を落とし、薄く切り分けてから食べます。最初は塩辛いです。後から鯖の旨味が広がります。ご飯にヘシコをのせてお湯をかけ、お茶漬けにして食べると、塩辛さが抑えられ、旨味が残ります。焼くと香ばしくなります。
鯖素麺
素麺の上に焼鯖を乗せた滋賀県の郷土料理。琵琶湖の東岸、長浜市の名物です。焼き鯖を醤油、砂糖などで甘辛く煮て、最後に素麺と絡めます。農家の間で、おかずとして食べられていました。5月になると、田植えが始まり忙しくなります。サッと食べられるように工夫した結果、誕生しました。農家に嫁いだ娘をもつ親が嫁ぎ先に焼き鯖を贈る5月見舞いという風習が長浜にかつてありました。以上より、長浜では、5月が最もよくサバが売れます。
今回は、鯖街道を旅したときの話をしました。鯖街道沿いに現代も残る郷土料理には、先人の知恵が詰まっていました。
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