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物語が持つ破壊的な力について

こんにちは@tateshina_lifeです。

今日は物語の大切さについて書いてみます。何度も書いたかもしれませんが僕の人生にとって欠かせないテーマでもあるので書き直しの意味も含めて書いてみます。

僕が子どものころ本を読むのが好きではありませんでした。

文学との最初の出会いが山本有三の「路傍の石」を買い与えられたことにあるかもしれません。

書き出しに触れた結果としての食わず嫌いだったのか、内容が当時の僕にふさわしくなかったのか、結局最期まで読んだのかどうかすら覚えていませんが、そもそも物語との出会い方として買い与えられるということ自体が良い結果をもたらさないのだと思っています。

僕が今まで生きてきて衝撃を受けた作品は色々とありますが、文学で言えば村上春樹の代表的長編作品である「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と「ねじまき鳥クロニクル」、そして文学以外で言えばブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙-超ひも理論がすべてを解明する」をすぐに思いつくことができます。

”世界の終り”と”ねじまき鳥”は順番は忘れてしまいましたが立て続けに読んだことを覚えています。

いずれも読んだ後しばらく現実世界に戻ってくることが大変だったことを覚えています。自分が現実世界から切り離されて、文字を媒介として展開する物語の中に”存在していた”のです。

文字にすると伝わらないと思うのですが、本当に大変だったのです。

現実の世界の方が僕が”いる”ことについて違和感を感じるような気がしたのです。どちらが虚構なのか分からない時間が1週間から10日間くらいあったと思います。

端的に言えば、現実世界に戻りたくない、もしくは現実世界を”虚構”の世界に塗り替えてしまえるのではないか、という気持ち、イメージが張りついたのです。それは僕の引き出しを使えば”希望”という言葉に置き換えられる感覚でした。

”エレガントな”は物理学の話です。相対性理論や量子力学、超ひも理論など自然科学を分かりやすく解説するものであり、いわゆる物語を媒介する文学とは正反対と言えるものかもしれません。

しかし、僕の”現実”を支える想像力の限界を破壊し、再構成するには十分過ぎる世界観を展開してくれました

僕という存在を構成する物体や、過ぎゆく(と思いこんでいる)時間、さらには”存在する”という事象に至るまで僕が知る世界とは全く異なる世界が”存在する可能性”について圧倒的な”量”がそこにありました。

自然科学が僕に見せる圧倒的な可能性は、”虚構を現実に変えることができる”という当時は薄れかけていた、かつて強く信じていた希望を再び確実な手応えを持って僕のところに引き寄せてくれました。

本は繋がっていたのです

媒介する存在は僕の方だったのです

物語は可能性であり過程です。だからこそ希望を僕らの手元に残してくれるのです。結論のない世界で僕たちは生きていいる。奇跡なのです。それは毎日、毎分、毎秒起こり続けているのです。

幸せはあなたの手元にあるのです。

物語は呼びかけてきます。

その声に素直に従ってみてください。

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