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【子ども時代のちーちゃん⑤】人を好きになることが、私には許されない?

このnoteでは、LGBTQ当事者として、福祉の現場に立つ者として、「生」「性」そして「私らしさ」について思いを綴ります。(自己紹介もぜひご覧ください)
幼少期から思春期を経て、自立の時を迎える中で次第に大きくなっていく心と体の性の違和感。前回に引き続き、女性の体に困惑する「子ども時代の私」を振り返ります。

中学生になると、それまで仲が良かった男子たちと急に疎遠になり、私は女子のグループの一員に組み込まれていきます。

女子同士の話題はいつも恋愛の話。「誰が好きなの?」という質問に「〇〇君」と答える日々が続きました。でも、本当の恋愛の対象は「女の子」。いいなと思う男の子もいましたが、「手をつなぎたい」と思ったことはありませんでした。

思春期の私が、「2人だけになりたい」「手をつなぎたい」「キスしたい」「エッチしたい」と思っていた相手は女の子でした。身体は女性ですが、心の中は「思春期まっただ中の男の子」と同じだったのです。ただ、そのときは、心は女性である自分が女性を好きになっているのか、実は心は男性である自分が女性を好きになっているのか、わかっていませんでした。

中学生になった私が好きになったのはAちゃんでした。Aちゃんとはいつも一緒で、きっと周りからは親友の二人に見えたでしょう。夜中にAちゃんに会いたくなって、自転車で家まで行ったこともあります。当時は携帯を持っていませんでしたから、自分が来たことを知らせるためにAちゃんの部屋の窓をめがけて小石を投げたらガラスにヒビが入ったこともありました。

Aちゃんと長電話したい、手をつなぎたい、キスしたい。男の子が女の子を好きになったときに思うことを、女子中学生の私は思っていました。そして、二人きりになった時、最初は冗談のように、でもだんだんと率直に、私はAちゃんに好きだという思いを伝えました。Aちゃんは、私の思いを受け容れてくれました。

Aちゃんは、私の恋愛対象であり、同時に、だれにも知られてはいけない思いを受け容れてくれる親友でした。だからこそ、当時の私にとって一番の恐怖は、Aちゃんを好きなことが周りにばれてしまい、Aちゃんとの仲が壊れてしまうことでした。

ある日、私の部屋でAちゃんと二人でおしゃべりをしていました。二人ともベッドにごろんと横になって、とりとめのない話をしていました。身体に触れたり、キスしたりしていたわけではなく、ただベッドに並んで話していただけのことでしたが、私にとっては穏やかな、とても満ち足りた時間でした。

しかし、そこに突然、母親が現れました。ベッドに並んだ二人を見て、母親は、非難するように「何をしてるの!」と強い口調で私に言いました。ただ仲良くしているだけなのに、なぜ、そんなふうに言われなければいけないの? 母親の剣幕に驚き、私は困惑しました。

Aちゃんを好きだという気持ちは、学校の友達はもちろん、母親にもばれてはいないはずでした。しかし、もしかするとそのとき母親は、娘である私に、母親として受け容れがたい何かを感じとったのかもしれません。それくらい、強い口調でした。

Aちゃんに対する思いは、同性愛なのか、あるいは男性としての愛情なのか、私の中でも整理できていませんでした。しかし、Aちゃんが好きだという思いは間違いのないものでした。人を好きだと思う気持ち、好きな人と一緒にいることを心地よいと感じる自分を母親に否定された気がしました。

女子中学生の私が、男子中学生の彼氏を家に連れてきたら、母は笑顔で歓迎してくれたはず。でも、Aちゃんとは一緒にいるだけで強く否定されてしまった……自分は、人を好きになることが許されないのだろうか。私にとって、とてもショックな出来事でした。

次回からは、女子高校時代の体験を振り返ります。大好きだったAちゃんとのその後、高校時代に被害者にも加害者にもなったいじめのこと、そして生まれて初めてのカミングアウトなどについてお話しします。

**年末年始はお休みをし、1月12日からnoteを再開します。みなさま、よいお年をお迎えください!**

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