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【Re:Habilis ~失われた私とリハビリテーション~ / -1-『私のアナムネーゼ』

『Re & Habilis』

【あらすじ】
28歳を迎えて私の右手足は動きを失い言葉も失われました。
脳梗塞を発症しもともと無口だった私は夫へ想いを伝える術を失いました。
正面に座るのは可愛らしい顔立ちの療法士です。
今日からは私が私自身を再び取り戻すための旅路。
言葉にはまだできない、たくさんの想いに溺れたままで。
いつかあなたにも知って欲しい。
これから始まる私のリハビリテーション。

-1-「私のアナムネーゼ」

 28歳を迎えてしばらくが経ち、私の右手足は動きを失い言葉も失われました。

 脳梗塞を発症しもともと無口だった私は夫へ想いを伝える術を失ったのです。

 本格的なリハビリテーションを行う病院で、窓辺のベッドがあてがわれました。

 横たわる私の隣で夫が私の代わりに私のことを伝えています。

 正面に座るのは可愛らしい顔立ちの療法士です。

 彼女は書類とバインダーを胸に抱いていました。

 アナムネーゼと彼女は言いました。おふたりのことを教えてくださいと。

 初めて聞いた言葉です。ドイツ語のような響きで柔らかなお菓子みたいな印象です。

 ただ私は言葉が話せません。
 理解はできます。
 でも話そうとすると音は歪んで望む言葉が出てこないのです。

 代わりに夫が質問に答えます。私たちには子供はおらず賃貸の2階に住んでいると。

 私は考えます。失われたままの右足の力で、家に入ることすらできないと。

 夫が続けて答えます。自分は作家をしていて収入が不安定だと。書店で働く私と共働きで家計を支えていたと。

 私がいなくなって職場の人には迷惑をかけているでしょう。
 そしてずっと良くしてくれた同僚と再び働くことなんて、できるはずがありません。

 私の動かない右手のままで仕事をするなんて考えられませんから。

 家族構成を聞かれて夫が答えます。

 私には両親がいてまだ健在です。でも若い年齢とは言えません。

 私は身の回りのことがひとつもできません。身長ばかりが伸びた赤子みたいです。

 これから先は両親に世話をしてもらうのでしょうか。

 それでも夫に迷惑をかけながら生きるよりもずっと、マシかもしれません。

 きっと優しい夫は私を見捨てることはしないでしょう。

 甲斐甲斐しく私を介護して、いつか自分を追い詰めていくのでしょう。

 私の所為で。
 私の失われた言葉と右手足の所為で
 夫の夢や自由が途絶えるのです。

 自分が死んでしまうよりもずっと私には耐えられません。

 いっそ死んでしまった方がよかったと思えるくらいに、耐えられないのです。

 失われた日常と、先の見えない旅路に溺れて息を吐くことすらできません。

 いつの間にか私は目を伏せていたのでしょうか。

 暗く閉じられた視界の変化に気がつきました。

 療法士の彼女が私の肩へと触れ、陽だまりのような温度を感じたからです。

 柔らかな笑みで彼女は言います。これからも独りではありませんよ・・・と。

 あぁそうだ。
 アナムネーゼに記された私の生きた証は、決して独りではないという証でもあるのです。

 苦難や試練は人を孤独にします。障がいは世間から私を孤立させました。

 ただ同時に独りではなかったと教えてくれるのです。

 まだ先行きはわかりません。どうなるかも知りません。まだ知りたくはありません。

 ただ独りではありません。独りではなかったのです。

 ゆっくりと笑みを彼女に返し、そういえば鏡はしばらく見ていないなと、自分の表情を想像しました。

 まだうまく笑えていないのでしょう。

 いつかまた笑えるのでしょうか。

 きっと笑うことができるのでしょう。

 またひとり・・・私のアナムネーゼに記すべき人が増えたのですから。

 そうして一息ついた後、さてこれからは・・・と髪を揺らして彼女は笑みを浮かべます。

 今日からは私が私自身を再び取り戻すための旅路。

 言葉にはまだできない、たくさんの想いに溺れたままで。

 いつかあなたにも知って欲しい。

 これから始まる私のリハビリテーション。



読み手:深文

脚本・演出:Tanakan


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