見出し画像

記述/痕跡

パリンプセスト。
羊皮紙にすでに書かれていた内容を消し、その上に別の内容を記述する、リサイクルの方法。
紙が普及する前、記録用のメディアとして用いられていた羊皮紙は、高価であるがゆえに、そうした使われ方をする前提で使われた。現代では、一度消された記録を復元する技術が開発され、その復元から重要な発見がされることもあるというが、消されたということは当時「重要ではない」と判断されたということだ。
何が残すべき記録であり何がそうでないかどうかを判断するのは、時代などで判断基準が異なったりしてむずかしい。

そんな記録とその保存の問題が年末年始に読んだ円城塔の2つの小説『エピローグ』『プロローグ』に書かれていて、それは物語を左右する重要な問題だった。

そのシステムによって可能になったのは、誰も読むことがなく、通常の手段では読み切ることもできない大量の文章たちで、ストーリーラインで、お話であり、個々の人生であり、他人によって書かれた歴史で、機械的に生成された歴史で、書き手なしに進行していく物語であり、しかし記録媒体の大きさには限界があり、全てを書き留めていくわけにはいかず、書き上げられた原稿の大部分は秘密裏に廃棄され、消去されていたのであり……。

『エピローグ』で描かれるこの状況は、このnote上で繰り広げられているライティングをはじめとするインターネット上の書き物の膨大さを想起される。それは容量の問題から「秘密裏に廃棄され、消去される」ことはないまでも「通常の手段では読み切ることもできない大量の文章たち」という点では変わらない。
この通常の手段として、人間以外の機械に読みも「通常」に含めてなお、読み切れない事態が発生した頃から、秘密裏の廃棄や消去も現実味を帯びてくるのだろうか。デジタル時代のパリンプセストが……。

ところで、記述の上書きという点では、何も記録用メディアの上の情報だけが上書き対象ではない。最近では、空間もまた、さまざまな情報で上書きされることが1つの流行であるようにも思える。
デジタルではなく、物理的である分、空間のコストは高くつく。すぐにコスト的な容量オーバーにもなるのだろう。

例えば、オフィス空間においても、1つの空間が1つの決まった用途用にデザインされてきた従来的な空間の使い方の変化が見られる。1つの空間を複数の異なる用途で、上書きしながら使えるパリンプセストの羊皮紙のような空間デザインが増えている。

その空間は、時には打ち合わせや個人ワークなどの日常業務に用いられ、別の時にはセミナーやワークショップなどのイベントスペース、場合によってはパーティーや展示会にも使うことができる。仕事のワークフロー自体、以前ほど、決まりきったプロセス、人員構成から行われるとは限らなくなり、多様なワークフローや組織外を含めた多様なメンバーで仕事をすることが増えてきたことで、異なる内容で上書きすることにより別の用途で使える空間の使い勝手が求められるのだろう。

別の例では、Airbnbなども上書きされる空間の一例と言えるのかもしれない。結局は、パリンプセスト同様、1つの空間のコストを最大限、利益に変換しようとすれば、異なる視点をもった者の利用を可能にする方が良いということだろう。機能は単一の視点に供されることなく、複数の視点に広く開かれる。

『共産党宣言』で、マルクスとエンゲルスは、現代の経済的な条件のもとでは「民族的一面性や偏狭は、ますます不可能となり、多数の民族的および地方的文学から、1つの世界文学が形成される」と述べている。

と記すのは、『自然なきエコロジー』のティモシー・モートン。
クリスマス前に読みはじめて、風邪と円城塔の2冊の小説の読書によって、いったん読むのを中断していた、その本をまた読みはじめたのだけど、途中で「記述、記録」にまつわる小説を読んだことで、この本の読み方も変わってきている。『エピローグ』や『プロローグ』といっしょに読むと『自然なくエコロジー』はより面白く読める。3冊まとめておすすめしたい。

上の引用中のマルクス、エンゲルスの指摘は、つまり資本主義経済下における記述やその他行為のグローバル化の話だ。モートンはこう続ける。

もしもこの考えが、さまざまな国々の人びとが同じ事柄を同じやり方で書くということ以上のことを意味するとしたら、書くこと一般には、特定の諸条件のもとでは世界そのものの観念について熟考することができると考えることもできなくてはならない。世界を想像するこの能力は、特定の種類の悲惨のグローバル化と関連しないわけではない。「ウィ・アー・ザ・ワールド」と呼ばれる歌を歌ってたじろぐか、もしくは「国連」という言い回しの中にある、大量の苦々しい皮肉を目にすることが次第にできるようになる。エコロジーは私たちに、たとえ否定的なあり方であろうとも、事実上私たちは世界であるということを思い出させてきた。

それをした人が誰であろうと、書くこと(上書きする)ことが、もはや独立した個人的な行為ではありえず、本人が意図せず形で外部にいつでも利用される可能性があるということはもはや常識となっている。どんな行為もいつでも批判の対象であり、まるで無関係な領域からの非難を受ける可能性が常にある。

「放射能の拡散は国家の境界線を度外視する。苦々しくも皮肉なことに、1790年代の平等の夢が達成された」とモートンは書くが、マイクロプラスチックによる海の汚染も軽々と国境を越えるように、1つの行為とその痕跡を誰がどのような視点でどう判断するかは、もはや国境を越えてグローバルになされる可能性しかない。

リスクが平等に分け与えられる世界。多様な視点に平等に開かれた世界。
それはモートンが言うように、資本主義によって個別の場や空間が廃棄された世界でもある。1つの開かれた世界はあるが、ローカルな場や空間はない。上書きされる空間が流行るのも実はそうしたグローバルに開かれ、多様な視点に晒されざるを得ない、現代の環境での1つの傾向に対する反応でしかないのだろう。

『プロローグ』のGitHub上に開かれた小説の、複数の作家により上書きされた、もはや誰の視点でもないグローバルな地下空間、あるいは『エピローグ』の「人間よりも器用にチューリング・テストをクリアすることのできる」「オーバー・チューリング・クリーチャ」が刻々と解像度を上げながら拡張、複数化し続けた、もはや「人類はスマート・マテリアルの助けなくしては地表に立つことさえも叶わない」ような宇宙=世界。グローバルに開かれた世界における、エコロジー/環境問題がそこに見える。それは行為の痕跡としての記述の問題なのだろう。

そして、痕跡の問題であり、記述の問題であるがゆえに、それはいつでも事後的な問題である。
モートンは書く。

接触の瞬間は、いつも過去において存在している。この意味で、私たちはそれを実際に所有することはないし、そこに住みつくこともない。私たちはそれを、事後的に定位する。音が媒質を振動させたあとにのみ、こだまは私たちの耳へと達することができる。相対性理論によると、すべての知覚現象は過去において存在し、私たちの感覚器官には後になって到達する。

と。後から聞こえるこだま。僕らが記述する世界、世界に残した痕跡はそんなこだまのようなものである。
だが、気がつくと、僕らはそんな世界のこだまばかりに接している。記述としての世界や、誰かが残した痕跡としての世界ばかりに。それは世界そのものというより、世界のこだまであり、残像だ。しかも、それは何度となく上書きされた後の世界の記述なのかもしれない。

モートンの話にもうすこし耳を傾けてみよう。「それゆえに、アンビエント詩学にある、不気味で前未来的で事後的な--さらに憂鬱な--質感は、皮肉にも的確である」と彼はいう。

それは、事物が生起するやり方にある、必然的な遅延を追っていく。なにゆえに環境ライティングが直接性の感覚をそれほどまでに苦心して伝えようとするかを検討するとき、この点はとても重要になる。直接性は、「ロマン主義のエコロジー」が湖を横切る梟のこだまの中に聞くことを欲するものである。

ワーズワースの「少年がいた」という詩では、少年がひとり湖の断崖にたたずんで、

手のひらをぴたりと合わせ、
指を組んで口につけ
笛を鳴らすようにして、
ほうほうと梟の鳴き声をまね、
かれらが答えるのを待つのだった。

と歌われる。

梟たちはその呼び声に答え、
谷川の向こうから一声、また一声と
叫びかえした。ふるえる声、長い喜びの声、
鋭い叫びが甲高く二重三重にこだまして、
陽気な騒ぎの奔放な合奏が起こった。

という、少年と梟のコミュニケーションが描かれる。これは世界との直接的なコミュニケーションであるように見える。

しかし、モートンが「驚くばかりの休止と切り返しにおいて、ワーズワースはこの直接の性を撤退させる」と書くように、実はこの歌は、少年が10歳という若さで亡くなったことを追悼する歌だ。

彼が生まれた谷、森やあたり一帯は
まことに美しい。教会墓地は
村の学校を見おろす丘辺にある。
夕暮に丘をたっぷり歩いてその墓地を通ったとき、
わたしはたっぷり半時間も
彼の墓のそばに立ちつくしたと思う、
じっと黙って--10歳で彼は亡くなったのだ。

直接性はあとから発見される。それは事後的に記述される。
ハイデガーがその道具分析において、道具がどう機能しているかが現前するのは、その道具が不具合を起こした、壊れたときだというのと同じだ。

世界は目の前にある「瞬間」には触れられない。
モートンが次のように書くのは、そのような意味においてであろう。

顕在的な「瞬間」は事後的に顕在的になるのにすぎない。そのため、もしこの瞬間が完全にあるとしても、空白である。これはワーズワースの詩において、空白の空間と配列によって表現されている。

では、僕らはそんな風にいつでも「瞬間」からは取り残されて、自分自身だったり誰だかわからない人や機械だったりが残した記述、痕跡でつくられた世界像のなかに閉じ込められているしかないのだろうか?

「地球(ハイデガーのいう意味での)は私たちの背後で、「あちら側の向こう(over there)」で存続している」とモートンはいう。そして、「レヴァトフは、あれというよりほかにないものについての詩を作り、通常の叙事詩の主体をひっくり返す」と続ける。
そう言ってモートンが紹介してくれる、レヴァトフの「読者へ」という詩はこれだ。

あなたが読んでいるとき、しろくまが、だるそうに
おしっこした、雪は
あざやかな紫の色で染まっていく
そして、あなたが読んでいるとき、たくさんの神様が
蔓草のなかに寝ころんでいる。黒曜石の目が
葉が生えてくるのを見ている。
そして、あなたが読んでいるとき
海がその暗黒のページをめくっていく
めくる
その暗黒のページを

この反復。書くことと読むことの反復。そして、こだまの反復。
この連鎖する反復の中で「あちら側」はすこし感じられる。

記述という世界を直接触れられなくするものを突き抜けて世界に達する方法もまた記述とそれを読むことの反復の中にあるのだろうと思う。
そう思うからこそ、今年も世界の記述を続けていきたい。


この記事が参加している募集

推薦図書

基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。