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詩がない

詩を感じないものには、心が躍らない。

もちろん、いちいち、いろんなものに心が躍っていたら、まともに日常を生き抜いてはいけない。だから、心躍るものはそこそこの頻度であらわれてくれればいいとは思ってはいる。

けれど、本来、心躍らせてしかるべきものと面と向かったときにさえ、「あ、詩がない」と感じてしまうと、やはり、むむっとなる。
そこでの詩人の不在は、もはや罪のレベルだと思う。

詩であるということ

詩とは、ある意味、神話的な歴史を語る言葉なんだと思っている。
ひとつ前のnoteで書いた事実史の対象ではなく、想起史の対象になるようなものが、詩の対象でもあると思う。

西洋の歴史画と呼ばれる分野の絵画が古代の神話を描くのと同じ意味で歴史。そして、そこで描かれているようなものが詩の対象でもある。
ようは、ここで僕がイメージしてるのは叙情詩というより叙事詩的なものだということだろう。

神話だから、その対象は人間でなくてもよい。ポストヒューマンだ。
植物だろうが、動物だろうが、はたまた、文化や国家や、それこそ、神々が対象であろうと、その興亡、生き死に、愛憎、成長と老い、信頼と裏切り、など、心を動かす出来事がそこにあったのを、詩人が感じた痕跡がそこに残っているかどうか。

歴史といったが、ナチュラルヒストリー博物誌的な視点に実は詩を感じる。だから、人がいなくても、植物や動物、あるいは、建築物や機械などの人工物などがあれば、詩になる。人工物も含めたナチュラルヒストリー。

不可解さと、詩と

そういう意味で、何かが語られるとき、そこに詩の不在を感じてしまうのは、そこに物事をちゃんと理解しようという気持ちがあるのか?を訝しく思ったときだったりする。それ、わかって見せてるのか? 並べているのか?と悲しくなる。

何かを感じさせる物事に出会って、そこに心が動かされたことを、ちゃんと自分の言葉に落とし込めるか。
詩があるかないかはそこにかかってくる。

不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない。理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない。だから、それ以上の発見にはけっしていたらないのさ。

という台詞が、ノヴァーリスの『サイスの弟子たち』にある。

まったくだ。
いや、理解力がすくないのは良い。
問題は、それでも不可解さと付き合い、発見を目指そうという姿勢を維持し続けられるかだろう。
それは頭がよいかとか、物事を知っているかとかいう話ではない。
眼の前で起こる出来事、存在している事物に、詩になるような感情を抱けるかどうかなのだ。

15世紀頃から17世紀にかけてヨーロッパにたくさん作られた驚異の部屋という名の博物誌的な空間は、まさに詩人の心をもった人々の持ち物だったのだろうと思う。

混じり気のあるもの同士をつなぐ糸が見えるか

エルネスト・グラッシの『形象の力:合理的言語の無力』は、冒頭にこんな一文があるのが好きだ。

人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。

この感覚があるかないかというかもしれないと思う。一見、途切れているように思える「糸」をちゃんと見いだせるか?

整然と並んでいるように思われたり、逆に、相互に無関係なもの同士が互いに関連なく存在しあっているように思えるこの世界が、いかにたくさんの糸でつながっているか。その糸がちゃんと見えるか、ということだろう。

さらに、このさまざまな存在が混ざり合って状況でも、その糸同士がすこしも絡まり合うことなく、複雑な関係性を構成しているかということに驚きをもってみて、それをすこしずつでも言葉にしていけるか、ということでもあると思っている。

そういう試みが詩なのではないかと思う。
理解しようとする姿勢とそこで得た心の動きに純粋であろうとすることが詩だ

逆に、そういう普段の常識的な言葉の網からは隠されている糸をちゃんと見抜こうともしないのなら、そんな創造性のないところに詩はない。

21世紀のナチュラルヒストリー

そして、この糸の様子を見ることが、詩的であり、歴史的であるのは、この糸のつながりやその状態が常に動的で生成されるものであり、安定とは無縁なものだからだ

その関係はデザインされたシステムではなく、自然の偶然のなかで創発的に生じる関係であり、バランスだからだ。

人類学者のエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロが『食人の形而上学』で、ドゥルーズとガタリの「リゾーム」という概念を援用しながら、こんな風に書いているのが、イメージに近い。

『生のものと火を通したもの』と『大山猫の物語』のあいだを巡ってみれば、連続するセリーとして形成されたアメリカ先住民の神話学は、樹木をつくりあげるのではなく、リゾームを作成するということがみいだされる。つまりそれは、中心も起源もないおおきなカンパスなのであり、「ハイパースペース」のうえに配置された言説の、集合的で太古に遡る巨大なアレンジメントなのである。それは、たえず「記号の流れ、物質の流れ、社会的なものの流れ」によって横断されている。

こうした、ある意味、動的に生成され続けていく流れを記述していく行為、それは人類学者の行う民族誌的なものも、ナチュラルヒストリー=博物誌に重なる。それはそもそも神話的であるし、それゆえに詩的である。

だが、この人類学的な視点がなぜ他の民族にだけ向かい、自分たち自身も含む環境には及ばないのか?
その盲目的な態度にこそ、持続可能性を問われる要因をつくる人間中心の活動があるのではないだろうか?

20世紀の標語が「医療による生活向上」であったとすれば、21世紀の標語は「環境保全による生活向上」というものになろう。

と書いたのは、『セレンゲティ・ルール 生命はいかに調節されるか』のショーン・B.キャロルだったが、まさにこの標語のような姿勢をとろうとすれば、僕らはもうすこし詩的な目で自分たちを含む世の中に目を向け、それをちゃんと自分の言葉で語らなくてはいけないのではないだろうか。

詩的に、とはいっているが、再三書いてきたように、それはヒストリーであり、ナチュラルヒストリーである。当然、そこにはサイエンスの視点が含まれているのはいうまでもない。
いや、21世紀のナチュラルヒストリーはもう一度、サイエンスと詩的なものの境を取り除いてみる必要がある。
最近、巷でいうサイエンスとアートの融合なんてことより、詩的なものとの再統合を目指すことの方がどれだけ大事なことだろうかと思う。

それくらい、詩がないのだ。


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