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〝〟で始まるもの。

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#エッセイ

車

食後に出されたコーヒーを飲みながら「実は車で来てるんだ」と彼女。待ち合わせはいつものように駅の改札だったのに。どこに停めているのか訊くとすぐ近くのコインパーキングという。嫌いなはずのきのこのスパゲティを平らげた先ほどの様子に色々と訊ねようとしていたところへ、また別の小さな課題を出されたような気分。ぼんやりしつつも駐車料金がかさんでいくのが気になってソワソワした。まもなく車でどこかへ移動しようと提案

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嫌い

嫌い

ボローニャ風スパゲティがこちらに用意されるのと一緒に、彼女の前にはきのこの生クリームあえスパゲティが置かれた。あれ。そこではじめて思い出す。注文しているときにはぼんやりしていたけれど、そういえば彼女はきのこ類がほとんど食べられなかったはず。アレルギーだとかいうよりも、「嫌いなんだ」と言っていた。だから、生でも火が通されていても和風でも洋風でも刻んであってもなくても、ただ「嫌い」だと。それが今は白い

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カスタネット

カスタネット

友人と近いうちにランチで会うことになった。会うのはだいたい自由が丘。二人の中間地点だから。お店さがしの好きな彼女にいつも任せているけれど、今回は私から提案してみた。不意に思いついた「カスタネット」というカジュアルイタリアン。もう何年も前の学生時代に数回だけ入ったことがある。1970年代にオープンしたお店ということで当時でさえも古い部類のレストランだったけれど学生には人気があった。
-続く-

〝か

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音

川の近くに住んでいる。川沿いの先には鉄道橋があって夜の散歩に堤防を歩いていると電車がそこを走る音が聴こえてくる。摩擦しあう車輪とレール。それを受けとめる橋。それぞれの鉄が響きあう音が夜空に広がる。夏より空気の澄んでいる冬には鉄道橋から離れていてもよーく聴こえる。だから冬の夜の堤防散歩が一番好きだ。夏は夜でもその暑さに意識が向いて音に耳を傾ける余裕もない。でも最近はどうだろう。今年はこの季節にしては

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うちわ

うちわ

歳の離れた友人の話。彼女が何十年も前に野球の早慶戦を観に行ったときのこと(ちなみに早稲田側の応援)。試合開始の近い時間帯で神宮球場は人の往来が激しくなっていた。入口では入場者に応援用のうちわが配られる。慌ただしい人の流れの中で前にいた男性が受け取ったうちわは汚れていた。「え、なんだ、これ」。少し不服そうなその顔を見たときに友人は思わず「これどうぞ」と、自分のきれいなうちわを差し出し交換を申し出た。

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いつか

いつか

「いつか会おう」。「うん、いつかね」。何でもない会話に見えても、そこには〝いつか〟への温度差があるものだ。「いつか会おうね(…すごく忙しそう。予定を聞くのも悪いほど。いつか、と言うしかないな。こちらはいつでも会えるけれどね)」。「うん、いつかね(…誘いは嬉しいけれどこの忙しさの中では難しい。いつか、と言っておこう)」。どちらもわかる。そしてよく言われることだけれど、未曾有の状況下ではその人の本質の

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雨

濡れた道を歩くときに思い出すのは、穴の開いた靴で雨の中を歩いて足もとをぐちゃぐちゃにした日のこと。身につけるものに構わない日々が長いこと続いていた。大切な大叔母の様子を見るために、横浜から世田谷区まで中古のブルーバードで通う毎日。車での移動だと着るものに気を配らなくなるのはよくあること。もともとがオシャレさんではないから拍車がかかる。駐車場から大叔母のいる部屋まで少し歩かなくてはならない。その日は

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