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思想としての東京ディズニーシー

「思想として、ディズニーシーが好き」という人々がいる。

東京ディズニーシーのおもしろさの一つ(そして、日本のディズニーオタクが怖れられ、避けられ、嫌われる理由の一つ)は、この「思想としての東京ディズニーシー」にあると思う。

私は現在、このnoteの査読もしてくれているもちさんと、YouTubeで「RADIO ON D'AIR」というラジオをやっているのだが、もちさんも歴とした「思想としての東京ディズニーシー」愛好家だ。東京ディズニーシー主義者と言っても良い。
もちろん、かくいう私も東京ディズニーシー主義者である。

この記事の目的は、彼らにとっての「東京ディズニーシー」を洗い出し、その思想を明らかにすることである。

2010

「ディズニーシーらしさ」で検索してヒットする最も古いツイートは、2010年7月11日のものである。

しかし、「ディズニーシーらしさ」という単語が最もよく使われる状況は、こうした「この施策はディズニーシーらしい」という表現ではない。
むしろ、「この施策はディズニーシーらしくない!」ときである。
その最初の例も同じく2010年にみられる。9月13日のツイート。

ここにある「シーのランド化」は、東京ディズニーシー主義者にとって重要な問題であり続けている。
同じく2010年、リプライの中でその表現を垣間見ることができる。

これが、「シーのランド化」に触れた最初のツイートのようである。

「シーのランド化」

ここでいう「シーのランド化」は、複数の意味を持っている。
一般的には、「東京ディズニーシーのあらゆる特徴が、東京ディズニーランドのそれに似ていくこと」を指している。言い換えれば、「東京ディズニーランドと東京ディズニーシーの差異がなくなっていくこと」である。

ここでいう「東京ディズニーシーの特徴」とは何か。
その「特徴」の解釈をめぐっては東京ディズニーシー主義者の間で絶え間ない議論が行われている。

しかし、ここで問題が生じる。
「東京ディズニーシーらしさ」を明確に定義した人物は、おそらく存在しない。
誰も明確に「東京ディズニーシーらしさ」を言い表せないのに、なぜか共通認識としての「東京ディズニーシーらしさ」が存在し、しかも最近の東京ディズニーシーは「ランド化している」などと言えてしまうのである。
私はそのことを批判したいのではない──実際に私もそう思うからだ。

多くの人の頭の中にある「ディズニーシーらしさ」とは、たぶん「純然たるディズニークオリティ」である。
その内訳として、例えば「ストーリーやテーマに対するこだわり」「豊富な背景情報」といったディズニーらしさに加え、「大人向けの雰囲気づくり」「ディズニーキャラクターが登場しない」などの純粋さがある。

こうした「ディズニーシーらしさ」が生まれた背景には、日本のディズニーパークの位置付けが関わってくる。少し、東京ディズニーシーの歴史を勉強してみよう。

冒険とロマン

東京ディズニーランド建設においてディズニー側の通訳者・ローカライザーとして参加したダグラス・リップ(1994)は、「東京ディズニーランドは若い女性の支持を受けて大きく伸びた」ことは「アメリカのディズニー関係者にとっては驚きであるに違いない」と述べた。
この傾向は現在も変わっていないばかりか、むしろ顕著なものになっている。

東京ディズニーランド開園の5年後、1988年には第二パーク建設の話が持ち上がり、紆余曲折あってプロジェクトは東京ディズニーシーと確定する。
日本のディズニーパークを運営する株式会社オリエンタルランドが考えていたことは、東京ディズニーランドの客層──すなわち「若い女性」と「ティーンエイジャー」──以外の人々をもターゲットにすることだった。

東京ディズニーランドは「夢と魔法の王国」です。それに対して、今度のディズニーシーのコンセプトは「冒険とロマン」としました。いままで東京ディズニーランドにあまり来られなかった層のお客様を呼ぼうと考えています。コアターゲットとする人の年齢幅を広くして、高年齢層、40代、50代あるいは60代の男性の方にも来ていただくために少しコンセプトを変えております。

加賀見俊夫「東京ディズニーランドからイクスピアリ誕生まで」『ショッピングセンター』2001年3月号、16ページ

こうした点から、日本のゲストが想像する「ディズニーらしさ」の逆張りをすることが、東京ディズニーシーの根底を流れるスタンスになっていったのだと思われる。

例えば、2005年に放送された東京ディズニーシーのテレビCMは、お父さん目線で制作された。アコースティックギターデュオのゴンチチが演奏する「ア・ホール・ニュー・ワールド」を背景に、パーク内のスナップ写真がスライドショーのように映し出される。そこにオーバーラップするお父さんの独白。

アトラクションに乗って、気付いたら子供より叫んでいた。
ゆっくり行こう。街は美しい、空は高い。
辺りが黄金色に輝くと、皆少しそわそわし出す。ショーがそろそろ始まるからだ。
海からの風が気持ち良くて、妻と子供も側に居て、僕はちょっと泣きそうになった。

面白いのは、このCMと対をなす形で、同じ1日をお母さん目線の独白で巡るバージョンが制作されていることだ。

アトラクションに乗って子供よりはしゃいでいたパパ。
私達はうきうきして、走り出しそうになるのを堪えている。
美しい街並み、海から吹く風、運河を通るゴンドラ。
ねえ、パパ。こういう時間を一番必要としていたのは、もしかしたら貴方だったのかもしれないね。

そもそもウォルト・ディズニーがディズニーランドを作ったのは、子供たちが遊園地で楽しんでいる間、自分はベンチに座ってピーナッツを食べるしかやることがないという状況を嘆いたからである。
子どもも大人も楽しめる遊園地を作りたい──その想いと裏腹に、今や東京ディズニーランドこそが、お父さんはベンチで仮眠を取るしかない遊園地の代表格になってしまった。
おそらく、真の意味で「子どもも大人も楽しめるファミリーエンターテイメント」を実現するための方法の一つとして、お父さんの救済が挙げられたのではないだろうか。

「純然たるディズニークオリティ」

東京ディズニーランド開園時のオリエンタルランドのスタンスとシー開園時のそれとでは大きな隔たりがある。
東京ディズニーランドの建設にあたって、オリエンタルランドは「本物のディズニーランド」であることを求めていた。そのため、本国のパークにあるアトラクションの中から「あれがほしい、これもほしい」とピックアップしてグシャッとイイ〜感じにまとめたのが東京ディズニーランドだ。
一方、東京ディズニーシーの場合はディズニー社に「日本人が本当に喜ぶものを作れ」とオーダーしている。「ディズニーシー」のプロジェクトが始まる前には本国のいくつかのパークがオリエンタルランドに第二パーク案として提示されたが、オリエンタルランドは首を縦に振らなかった。結果的に、ここではむしろ「日本人が求めるものはアメリカにはない、だからオリジナルで作ってくれ」というのがオリエンタルランドの希望であったことになる。

さて、こうした経緯において、「東京ディズニーシーらしさ」のひとつが「純然たるディズニークオリティ」であるというその真意をご理解いただけるのではないかと思う。
ディズニーに所属するイマジニア(想像力イマジネーションを駆使する技師エンジニア)が、足枷だらけで不自由だった時代にも関わらず潤沢な資金を与えられ、一言「さあ、好きなことをしてくれ!」と言われたために完成したのがこのパークなのだ、という価値観が、「ディズニーシーらしさ」の根底にある。

その結果として、東京ディズニーシーは今や「世界最高のディズニーパーク」として海外ファンから評されるほどになっているのだ。

ところで、ここで一つ補足しておく必要がある。
具体的にオリエンタルランドが「オリジナル」であってほしいと考えたのはパークの何についてなのかということ。それは決して、「革新的なアトラクションや新感覚のテーマパークを求めた」という意味ではなかった。
何故、そう断言できるのか?

何を隠そう「レイジングスピリッツ」「タワー・オブ・テラー」「タートル・トーク」「トイ・ストーリー・マニア!」「ソアリン:ファンタスティック・フライト」という、東京ディズニーシー開園後に新たに追加されたアトラクションはいずれも、「海外パークに既にあったものをアレンジして持ってきたもの」、つまりリメイク企画であって、東京ディズニーシーオリジナルではないのだ。
「レイジングスピリッツ」「タワー・オブ・テラー」はどちらも12年越し、「ソアリン:ファンタスティック・フライト」にいたっては18年越しに東京ディズニーシーにやってきたもの。東京ディズニーシー開園時には既に存在した「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮」ですら、本国から6年越しで持ってきたものである。

実際、これらのアトラクションは海外のファンから微妙な評価をうけている。演出やストーリーがオリジナルとはいえ、本国には(ある意味で)本物があるので、わざわざ東京に来てまで乗る必要がない。
むしろ人気なのは「センター・オブ・ジ・アース」と「アクアトピア」。前者はまだしも、「アクアトピア」に海外のゲストが興奮するのは、それが日本オリジナルで唯一無二のライドだからである。

逆にいえば、日本のゲストが「タワー・オブ・テラー」や「ソアリン:ファンタスティック・フライト」を高く評価する理由は2つにひとつ、海外にはないストーリーの魅力」か「海外を知らない」かどちらかだ。
つまり、「思想としての東京ディズニーシー」とは、「ディズニーイマジニア100%のエネルギーによって放たれる日本オリジナルのストーリー」にあるということだ。

東京ディズニーシーの作り込み、こだわりについては、数々のファンが考察・解説を行っているのでそちらを参照されたい。
筆者の記事では、「ここがへんだよディズニーシー」シリーズが挙げられる。

また、史実や科学との関連性(いわゆるBGSバックグラウンドストーリー)について、筆者は意図的に・・・・noteでの言及を避けてきたのだが、敢えてあげるなら以下の記事を参照されたい。

資本主義との戦い

ここまで、東京ディズニーシーは「純然たるディズニークオリティ」で語られる「オリジナルのストーリー」が「東京ディズニーシーらしさ」であるということを見てきた。

では、東京ディズニーシー主義者の人々が「東京ディズニーシーらしさ」に魅力を感じるのはなぜだろうか?
ここからは完全に私個人の見解だが、私はそこに「資本主義との戦い」というある種の「様式美」あるいは「スタイル」「覚悟」「生き様」「潔さ」があるからだと感じた。

例えば、イタリアのヴェネツィアをモチーフにしたエリア「パラッツォ・カナル」。
以下の写真はこのエリアの何の変哲もない風景だ。

あなたはこの写真の違和感に気がついただろうか?

実はこの部分に、白い筋が二本入っているのである。

この線は何かといえば、ヴェネツィアに定期的にやってくる高潮「アクア・アルタ」を再現したものと言われている。
パラッツォ・カナルは過去少なくとも2回、高潮に襲われているようだ。

驚くべきことにこの「アクア・アルタ」のストーリーを活かしたアトラクションやレストランはこのエリア内に存在しない。ただ高潮が再現されているだけである。言い換えれば、この高潮を再現したところで東京ディズニーシーには一銭も入らない。
それどころか、これは建物の壁面に塗料で色ハゲを再現するエイジングによって再現されているから、退色したら定期的に塗り直さなければいけない。つまり、一銭も入らないどころか金がかかるのである。

では、なぜ金がかかるのにわざわざこんな仕掛けをしたのか?
それはひとえに、「その方がオモロいから」に他ならない。ヴェネツィアを再現するのだから、ここまで再現した方がオモロいというディズニー側のこだわり(ある意味で「暴挙」といってもよい)によって、この装飾が存在するのだ。
こうした例はもちろん東京ディズニーランドにもあるが、東京ディズニーシーにはこうした「金にならないこだわり」が溢れている。

東京ディズニーシー・ホテルミラコスタの外壁
「トロンプ・ルイユ」という騙し絵の装飾を、イタリア現地の職人に描かせたもの
ガリオン船「ルネサンス号」
大航海時代の船を再現しているだけでなく、実際に木製で水上に浮かんでいるため、維持が困難
アトラクション「センター・オブ・ジ・アース」の擬岩
流れ出た溶岩が冷えて固まった様子を表現している

よく、「ディズニーは資本主義の国なんだw」と揶揄する声があるし、それは一面的に正しい。
しかし、東京ディズニーシーの真髄──言い換えれば「純然たるディズニークオリティ」──はむしろ、「カネを生まないところにどれだけカネをかけられるか」という、資本主義と対極の位置にあると言えるのではなかろうか。

誇りか?自虐か?

「カネを生まないないところにカネをかけ」続けた結果、東京ディズニーシーはあんまりウケなかった。
「東京ディズニーシーの純然たるディズニークオリティに付き合わされる」ことを是とするか否かという点で、「そんなの付き合ってられるか」という人が多数派だったのだ。
だから、東京ディズニーシーが好きな人たちの多くは、「いや〜5周年の東京ディズニーシーはすごかったよ!」などと言ったりする傍ら、パーク開園後数年間はガラガラだったことを揶揄するような発言もよくする傾向にある(角が立つので引用はしないが「ディズニーシー ガラガラ 当初」などでポストがヒットするよ)。

ちょっと思うに、これは高度な自虐ネタなんじゃないか。
開園当初の東京ディズニーシーが提供していたのは「私/俺だけがこのパークの良さをわかっているんだ」という優越感であり、「いや〜ランドさんは人気ですねwうちは全然っすよw」という自虐ネタであったのではなかろうか。

流石にそれは話を盛りすぎだろうが……現実問題として、東京ディズニーシー主義というのは「ディズニーキャラクターの登場しないディズニーテーマパークをいかに楽しめるか」という主義であるというのはおそらく事実だ。
だいぶ以前の記事であるが、私自身過去にそう書いたことがある。

ところが東京ディズニーシーというのは、高いメシを食って路地裏をぶらぶらして神殿調査をしてニューヨークの博覧会に出かけるみたいな、そういう口の遊び方ができます。私が東京ディズニーシーに魅力を感じるのは、「大の大人が大人にしかできないやり方でストレス発散している」感じがあるからで、そこには「もう純粋には戻れない」という哀愁が漂うものです。

ニヒルな旅をしようじゃないか【ディズニーシーレポ①】|The Ruminators' Salon

「東京ディズニーシーの純然たるディズニークオリティに付き合わされる」ことを是とするか否かという点において、「私はディズニーシーに付き合わされているんだ!」というある意味で自虐的な意識が、東京ディズニーシー主義者の間にはあるのではないだろうか。

それは一面的には自虐であり、また別の意味では誇りでもある。
「純然たるディズニークオリティ」に触れられることへの感謝、それらを理解していることへの誇り、このパークが日本にあり自身が日本人であることへの帰属意識すらあるかもしれない。
「私は東京ディズニーシーが大好きだ」と言って誇ることができる──東京ディズニーシーは、「純然たるディズニークオリティ」によって、誇るに値するテーマパークであり続ける。

ディズニーシーの凋落

こうした文脈においてこそ、冒頭で示した「シーのランド化」は解釈できる。

「純然たるディズニークオリティ」で以て「誇るに値するテーマパーク」であった東京ディズニーシーが、「誇るに値しない」状態になったとき。それを人々は「ディズニーシーらしさを失った」「シーがランド化している」状態と呼ぶのだ。

開園から数年経って、ディズニーキャラクターを活用して東京ディズニーランドに来るような層にもアピールできるようなパーク方針に転換し始めた。また2010年代に入ってからは、リゾート全体で行われたコストカットの一環で「カネを生まないないところにカネをかけ」ることができなくなっていった。
このことについては過去に「ここがへんだよディズニーシー」や「なぜあなたの友人はディズニーランドにハマるのか?」で触れたため割愛。

ここで、興味深いのは、東京ディズニーシー主義者の間に大きなレイヤーが形成されていることである。
東京ディズニーシーが年々「ディズニーシーらしさ」を失い続ける中、自身がパークに触れ始めた年代を基準に東京ディズニーシーの「ディズニーシーらしさ」を設定する。したがって、「ディズニーシーらしさ」に統一を見ることはできない。

私が査読担当者のもちさんと運営している番組「RADIO ON D'AIR」の第9回ではこのテーマを扱った。

2000年代に子供時代を過ごしたもちさんは「ディズニーシーらしさ」に憧れを抱きつつ、2010年代の失速にショックを受けている。そして10年代後半になるともはや「ディズニーシーらしさ」を諦めている。
一方の筆者(TamifuruD)は2010年代にオタクになったため、近年のパークの方向性には首を傾げつつ、「まだディズニーシーらしさは残っている!」と息巻いてなんとか巻き返しを図っている。筆者は2000年代を実際に経験していないので、想像でモノを語ることしかできない。いくら過去の東京ディズニーシーが「ディズニーシーらしい」としても、そのことに心から共感することは(そうしたくてたまらないが)不可能なのだ。

興味深いのは、東京ディズニーシー10周年のテーマ「Be Magical!」が、既に「ディズニーシーらしくない」と一刀両断されていた点だ。
おそらくこうした発言をする方々は、もちさんよりもさらに上の世代(2000年代には既に20代で東京ディズニーシーを楽しんでいた方々)なのではないかと推察される。

まあこれは正直、ディズニーパーク全体で起きていることでもあるし、シリーズものの「コンテンツ」の宿命であろう。
東京ディズニーランドの場合、15周年を頂点とする派閥もいれば、20周年のフィナーレに感動したというもちさんのような人もいる。私は25周年くらいのパークしか知らないし、人によっては35周年を頂点とする人もいる。
それは、過去を知ることこそできても、経験することはできないからである。

「楽しければそれでいい」…ってコト!?

以上、「思想としての東京ディズニーシー」について見てきた。それは、「純然たるディズニークオリティ」から放たれる「オリジナルのストーリー」であり、「資本主義との戦いという様式美」であった。
だからこそ、近年の資本主義に屈し続ける東京ディズニーシーを、人々は見ていられないのである。

2024年に新たにオープンする新エリア「ファンタジースプリングス」についても、ゲストの間では「ディズニーシーらしい」「ディズニーシーらしくない」双方の意見があるように思う。
結局、各個人の中で「ディズニーシーらしさ」の程度には差があるし、どのように映っているかも差がある。「ストーリーやテーマに対するこだわり」「豊富な背景情報」「大人向けの雰囲気づくり」「ディズニーキャラクターが登場しない」……どれも「カネを生まないところにどれだけカネをかけられるか」の勝負であり、「ディズニーシーらしさ」である。「ストーリーやテーマに対するこだわり」をとって言えば非常にディズニーシーらしいが、「ディズニーキャラクターが登場しない」かどうかの視点で見ていた人にとっては、ディズニーシーらしくないエリアであると言えよう。

東京ディズニーシーに何度も通い、通えなくともパークでの日々を思い返して、「東京ディズニーシーとは何か?」をじっくり考える。
そんな日があったら、きっと楽しいのではないかと思う。カネにはならないけどね。

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