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なぜあなたの友人はディズニーにハマるのか

2015年5月19日、株式会社オリエンタルランドは、東京ディズニーシーのアトラクション「ストームライダー」を閉鎖し、アトラクション「ニモ&フレンズ・シーライダー」を新たに設置すると発表した。このアトラクションは映画『ファインディング・ニモ』の世界が舞台で、この映画は第76回アカデミー賞長編アニメ賞を受賞した名作だ。続編映画『ファインディング・ドリー』の製作と併行して、ピクサー社が直々に開発することが決定していた。

「ストームライダー」閉鎖発表の僅か2日後、事件が起きた。有志によりオンライン署名が開始され、人々は「ストームライダー」のクローズ中止を求めたのである。
署名開始者は高らかに宣言した。

これは東京ディズニーシー全体の世界観を崩してしまうことにもなりかねない事態だと考えます。株式会社オリエンタルランドとThe Walt Disney Companyにこの問題を提起することは今後のパークを守っていく為にもとても重要なことである筈です
ストームライダーを守るために、そして未来のパークを守るためにぜひご協力下さい

オンライン署名 · ストームライダーのクローズと、それによるポートディスカバリー及び東京ディズニーシー全体の世界観崩壊を防ぎたい · Change.org

この署名運動はその後1344人の賛同者を獲得し、アトラクションがクローズして夢の潰えた今日でも、折に触れてファンの心を揺さぶってきた。

彼らの意図は一体なんなのか? そして、一体どうしてこうなってしまったのか?
事の顛末をお話しよう。

この記事は

この記事は、ゆる学徒カフェで収録したラジオ「なぜあなたの友人はディズニーにハマるのか」の台本です。
実際のラジオではゆる民俗学ラジオで話し手を、ゆる音楽学ラジオで聞き手を務め、さらにゆる学徒カフェの店長でもある黒川さんを聞き手に迎え、TamifuruDが贅沢にも大暴れをしています。是非お楽しみください。

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「なんでそこまでしてディズニーランドに行きたいの?」

ディズニーランドに関心がない人は、不思議に思うだろう。
また、ディズニーランドに興味がある人や、いわゆるディズニーオタクの人たちは、耳にタコができるほどそう質問されたことがあるのではなかろうか。

日本におけるディズニーの支持率、特に東京ディズニーランド/ディズニーシーに対するこだわりは異常である。
会社のどのオフィスにも、中高のどのクラスにも、必ず一つ以上はディズニーランドのチョコレートクランチの缶がある。そしてそこには必ず、ディズニーオタクまでいかなくとも「ディズニーファン」がいて、彼/彼女は1年に1度はディズニーランドに行っている。特に関東圏では顕著であろう。

また、「日本のファンは熱心だ」ということはディズニー社でも有名である。
日本でのプロジェクトにアサインされたクリエイターは、細部までこだわり抜いて納得したものを造れるということで大喜びし、同時に手を抜けないので覚悟を決めなければいけない。
ファンの多くは「年間パスポート」を手にすることを夢見ている。好きな時にパークに入り、例えばランチだけして仕事に戻るとか、夕方にやってきて夜のパレードを見て帰るとか、新商品の発売日にお土産だけ買って帰るということを画策する。

かくいう私もその一人だった。
だからこそ、問わなければいけないだろう──「なんでそこまでしてディズニーランドに行きたいの?」
この問いに答えるには、「本物のディズニー」と「日本版ディズニー」をめぐる、激しい宗派争いの歴史を紐解かねばならない。

この記事では、ディズニーのテーマパークが日本人にどのように受け入れられてきたのかを紐解いていく。


1955 ディズニーランドの誕生

アニメーション映画を子供のためだけでなく大人も楽しめるものにしようと考えたウォルト・ディズニーは、世界初の長編カラーアニメーション『白雪姫』やクラシック音楽にアニメーションを組み合わせる『ファンタジア』などを生み出した。
しかし、そんな彼もプライベートでは、不潔でおもしろみがなかった遊園地に連れ出される、不憫な父親の一人だった。家族みんなで楽しめる遊園地を作らねばならないと考えた彼は1955年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に世界で最初のディズニーランドを生み出すことになる。

このディズニーランドの特徴を、簡潔に二言で表せば「アメリカ讃歌」と「テーマパーク」である。

アメリカ讃歌

ウォルトが直接手掛けた1955年のディズニーランドには、開園当時23のアトラクションがあった。そのうち、ディズニー映画にまつわるものは僅か5つと25%を切る。それは何故なのか、ディズニーランド開園時のウォルトのスピーチを聞けばわかる。

「この幸せな場所へようこそ。ディズニーランドはあなたの国です。ここは、大人が過去の楽しい日々を再び取り戻し、若者が未来の挑戦に思いを馳せるところ。ディズニーランドはアメリカという国を生んだ理想と夢と、そして厳しい現実をその原点とし、同時にまたそれらのために捧げられる。そして、さらにディズニーランドが世界中の人々にとって、勇気とインスピレーションの源となることを願いつつ」

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』31ページ

入り口を抜けるとまず最初に巨大な駅舎が現れ、そこから白い煙を吐く蒸気機関車が発射していく。駅舎のファザードをくぐるとそこには、「メインストリートUSA」という目抜通りがあり、ウォルトが幼少期を過ごしたマーセリンの街のメインストリートが再現されている。彼はこの構造を通して、鉄道が文明の牽引車だったころの古きよきアメリカを再現しその時代の精神を自分も振り返りたい、そしてゲストにも振り返ってもらいたいと考えていたのである(有馬2011)。

他にもディズニーランドは、アメリカ人にとっての冒険を象徴する「アドベンチャーランド」、開拓時代のフロンティア・スピリットを追体験できる「フロンティアランド」(東京では「ウエスタンランド」)などのエリアに分かれている。これらテーマ設定はいずれも、ディズニーのアニメーションと一切関係がない。
また、ディズニーランドの開園と同年の1955年からウォルトの晩年にあたる1966年まで、トゥモローランドには“Rocket to the Moon”「月へのロケット」というアトラクションが存在した。トゥモローランドは、ディズニーランド開園時にアメリカ合衆国が置かれていた冷戦状態、そして宇宙開発競争の時代を念頭に置いて、未来技術のプレゼンテーションを行うエリアだった。

テーマパーク

では、「テーマパーク」とは一体何であろう。
ディズニーのテーマパークでは、それぞれの施設が巧みに「テーマ化」されている。アラン・ブライマン(2008)によれば、「テーマ化はナラティブ(物語)を組織や場所に適用すること」である。
1955年のディズニーランド以前にもテーマ化された施設は存在したが、ディズニーランドはそれらを凌いでテーマ化を徹底した。この点が、ディズニーランドのパイオニア的地位の秘密なのである。

なぜ、ウォルトはここまでテーマ化を徹底したのだろうか?
それは、彼が「ディズニーランドを一つの立体スクリーンと見立て」、「自分が語る物語の世界に人々を誘いこみ、ひとつのシーンから次のシーンへと移動させていくことを考えていた」からである。彼は「ディズニーランドでの一日をひとつのまとまったストーリーとして演出」するという発想から、ディズニーパークの地形、各アトラクションの内容、音楽、植栽、食品、土産品などを総合的にプロデュースしていった(能登路1990)。

1958 テレビの興隆

ディズニーと日本の出会い

さて、このディズニーランド。こだわりが高じて計画に賛同を得られなかったウォルトは、自ら資金集めに奔走することになる。その手段の一つが、「ディズニーランド」というテレビ番組の製作であった。この番組は、ウォルトが宇宙開発の夢や最新のアニメーション技術、そしてディズニーランドの出し物についてプレゼンするというもの。のちのプロセスエコノミーである

日本でもテレビ番組「ディズニーランド」が放送開始されたのは、テレビの興隆著しい1958年のこと。日本テレビが金曜八時に『三菱ダイヤモンド・アワー』(1958〜72)という枠で放送していた。
当時の日本は、「アメリカに追いつけ、追い越せ」の標語を掲げて復興の最中にあった。戦前に公開された『白雪姫』(1937)をはじめとするディズニー映画が日本国内にも流入。アメリカ側の検閲を潜り抜け、日本人が観ることを許された映画のひとつがディズニー映画だった。
また、1953年に登場したテレビが日本国内に普及し始め、59年には白黒テレビの普及が200万台を突破した。当時の子ども達がテレビに夢中だったことは言うまでもない。

1949年に生まれ東京ディズニーランドのプロジェクトにも関わった能登路雅子は、「ディズニーランド」を「あの夢のような番組のことである」と表現している(能登路1990)。
日本人はこの番組を通して、「経済性・技術力ともに絶対に到達不可能のアメリカという国」「アメリカの豊かな消費生活」についていやというほど理解させられたという(新井2016)。

おもしろいのは、「ディズニーランド」が「日本プロレス中継」と抱き合わせになっていて、一週ごとに交互に放送されたことだ。
「日本プロレス中継」では、「元力士の力道山が反則技を使うアメリカ人選手相手に戦い、空手チョップをお見舞いして成敗する」という勧善懲悪のフォーマットが好まれた。したがって、日本人の子供たちは「一週おきにアメリカという漠たる存在に対する劣等感と優越感を交互に味わっていた」のだ(能登路1990)。

思えば、これが日本人とディズニーランドの出会いであった。
日本人にとって「ディズニーランド」とは、彼らが目指し憧れた「アメリカの豊かな消費生活」に他ならなかったのである。

1983 東京ディズニーランド革命

東京ディズニーランド前夜

米国内ではウォルトが1966年に亡くなる頃……京成電鉄と三井不動産の出資で、株式会社オリエンタルランドが設立された。そしてつづく70年代には、東京湾の埋立地開発の一環で「ディズニーランド」を誘致する案が出る。
そして1983年4月15日、東京ディズニーランドが開園する。

当時の日本人はディズニーランドに好奇心を抱きつつ、それがやってくることを想像できなかったらしい。
能登路(1990)は、兵庫県赤穂の大石神社に旅行した際、「東京ディズニーランドに行けますように」と幼い字で書かれた絵馬を見たという。
また、多くの日本人は東京ディズニーランドを一時的な博覧会のようなものだと思っていた。当時の認識では、「東京ディズニーランドはいつからいつまでですか」という感じだったのだというからおもしろい。
TBS「ひるおび」に出演しインタビューを受けた株式会社オリエンタルランド社社員は次のように語る。

まずシンデレラ城というものが本当にあるのかっていうところで……まあ面接に来たときに最初は騙されたかなと思ったんですけど、バスに乗って、お城が見えるまで、ちょっとどうかなと思ったんですけど……お城見えてきて「あ、本当にやるんだ」って

貴重な映像満載!東京ディズニーリゾート40周年 共に歩んだ3人の社員にインタビュー【ひるおび】 - YouTube 2:27 -

一方、能登路(1990)は興味深いことを指摘する。カリフォルニア州のディズニーランド開園時と東京ディズニーランド開園時では似たような社会情勢が形成されていたというのである。
1955年のアメリカ合衆国では、第二次世界大戦直後のベビーブーム世代が10代に突入していた。また、テレビというメディアが子どもたちを直接刺激するようになったことで、子どもは親に買い与えられたものを無条件に受け入れるのではなく、自ら商品を選ぶようになっていったのだ。その結果、市場で重要顧客として認識されるようになった。
1983年の日本でも同じように、価値観の多様化と経済的な豊かさにより、新たな市場が創出され、重要顧客となっていった。こうした背景が、ディズニーテーマパークの成功に欠かせない要素となっているのだ。

ところで、ディズニーランドにやってくるゲストというと、どんな人を想像するだろうか?
ダグラス・リップ(1994)によれば、「アメリカ人がディズニーランドを訪れる人々を想像するとき、まず頭に描くのは家族連れである」。
ところが、実際に東京ディズニーランドの大部分は「若い女性客」と「ティーンエージャー」であった。つまり、家電製品が普及し時間の余裕があった主婦たち、また、社会進出し金銭の余裕があった独身の女性たちが、メインの客層であったのだ。当時、米国産の幼児向けコンテンツは「英語に興味を持った若い女性」の関心を惹いたといわれている。
開園から2年後の1985年、12歳未満のゲストの割合およそ18%だった。家族が平均して1人か2人の子供を連れてきたとしたら、この数字は約30%でなければおかしい。ちなみにこの割合は2022年には13.6%と更に低くなっている。

さて、彼らに東京ディズニーランドが好意的に受け入れられた理由は、オリエンタルランド社とディズニー社が「本物のディズニー」を造るのだと決心していたからである。そして、日本人もまた「本物のディズニー」を求めていたからであろう。

当時の高橋政知社長はスタッフに対して「いくら金がかかってもいいから、本物を創ってくれ。創る以上はロサンゼルスやフロリダに勝るものでなければならない」と檄を飛ばした(加賀見2003)。
また、ディズニー側の幹部も口を揃えて、「日本版ディズニーランドではなく、ディズニーが知っているディズニーランドを望み、その運営方法、専門的なノウハウ、そして哲学をそのまま持ち込みたいと彼らは考えていた」と語る。それはディズニー社にとって都合のよいことであり、オリエンタルランド社の願ったことに他ならなかった(リップ1994)。

では、具体的に「本物のディズニー」とはどんなものなのだろうか?

ディズニーフィロソフィーと日本の心

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