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【うたいたくなる栄養学】scene3 子どもを奪われた母と「あほらし劇場」

わたしは仕事で
ご高齢の方と会うことも少なくない。

嫌なことは嫌。
ストレートな表現に困惑もするが、清々しささえ覚える。
そしてたくさんの話をしてくれる。
過去の栄光、喜び、後悔、痛み。
言葉は、体験したからこその
血の通った、みずみずしさに満ちている。

懸命に学んできたキレッキレの
最新栄養学の出番がないこともままあるけれど、
それはそれで彼らとの会話をけっこう楽しんでいる。

うかがったのは、とある高齢女性のお宅。
甘いものが大好き。
家の中は食べ物で溢れかえっている。さあ、どうする。

饒舌な彼女の言葉に耳を傾ける。

昔、夫が女を作って、小さい子どもを連れ出て行ってしまったこと。
それからはずっと一人。懸命に会社に尽くしたこと。

福音が舞い込んだのは半世紀経ったあと。

「玄関で体操をしていたら声がしたの。
『お母さん、僕だよ。◯◯だよ』って。声が出なかったわ」

そして。

「わたし、育ててくれたあちらさんに本当に感謝しているの。
よくここまでいい子に育ててくれたってね。
自分の子どもでもないのに、立派に育ててくれた」

子どもと会うことを許されなかったあまりに静かで長い時間。
どんなふうに過ごしてきたんだろう。
子どもの成長をつぶさに見届けられなかったことへの恨み。
わたしなら死んだように生きるに違いない。

でも彼女には相手を「許す」という概念すらないようで。

子どもが去り一人になった、という事実があるだけ。
子どもが現れた。それだけ。
そのままで同じ場所で、毎日を過ごしているだけ。
そこに意味なんてないんだ。

恨み、悲しみ、悔しさ。
子どもを奪われてかわいそうに。
いろんな感情や意味を勝手にくっつけて
壮大なストーリーを勝手に作っているのはわたしの方。
ひとりで悲しんだり気の毒がったり。あほらし。

彼女の大きさ、そして自分の小ささに直面し、思わず天を仰ぐ。


買い込むことをやめないのは
一人で生きてきた防衛本能からなのだろう。
その習慣が彼女をここまで生きながらえさせたのだろう。
皮肉なことに、今は心と身体をむしばんでいる。
誰が断じることができるだろうか。

栄養で心と身体が変わっていく人を、わたしはたくさん見ている。
何ができるだろう。そんなことを考えている。







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