
「こんな私もかわいい」は「やっぱり、こんな私」でしかないのかも
私は、自分の顔に自信はない。というか、日本、ひいては世界中の多くの人が自分の顔に自信なんてないんだろうなと思う。
それに少なくとも日本では、対して(世間一般の”美しい”と言われる人と比較して)”可愛くない/かっこよくない”人が自撮りすることは、”痛い”と言われ、嘲笑の対象になったりする。
それでも、私は前よりたくさん自撮りをあげるようになった。
それは、ルッキズム(外見至上主義)が至極馬鹿らしい価値観だと感じたし、それに無言で加担している自分がなんか嫌だったから。
そして、こんな流れはなんとなく自撮りをあげて「どんな私も最高で可愛い!!」と自己を肯定するブームを呼んだように感じる。
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でも、最近モヤモヤする。
ことさら、それは「脱コル」というワードをSNSで見かけるようになってから。
「脱コル」は、装飾抑圧からの脱却というような意味なんですが、要は、化粧や、いわゆるフェミニンな服装なんかは社会から”女性”だけ強制されている。それってどうなん??と異議を唱えたり、化粧なんかをしない選択をすること、っといったニュアンスだと理解しています。
※もし、訂正箇所などあればコメントください、、、。
まぁ、今日は「脱コル」の話がしたいわけではなく。
どちらかというと、シンプルにルッキズムについて。
ルッキズムに反発して、「私なんて」という言葉を「私だって」に変換してきた。
けど、
「鼻が高くない私も可愛い」
「目がぱっちりお人形さんのようじゃなくても可愛い」
「シュッとした輪郭じゃない私も可愛い」
「顔にあざなんかがあったって可愛い」
「色白じゃなくたって可愛い」
こうした言葉の一つ一つが、結局ルッキズムで自分自信をがんじがらめにしてしまってる気がしてならない。
結局、存在しない”基準”を評価軸に、そこから私は落ちているけど、「それでも、、!」でしかないのかもしれないなって。
ほんとは、ルッキズムが作り出した架空の”基準”をなくすことこそ、ルッキズムに意義を唱えることに繋がるはずなんだけど、今はまだ「こんな私でも」を定着させる段階なんだろうか。
どんな私も美しい。
前までは、このスローガンが素敵だと感じていた。だけど、何だか最近は「美しいことこそ善」と言いたげに聞こえてしまって、いまいち賛同できなくなってきた。
これは、ルッキズム神話を壊すさらなる過渡期にいる証拠なのか、それとも私がひねくれてるだけなんだろうか。
難しいな〜〜〜〜〜。