愛について。あるいは、パートナーになるということ。
きっと、これが最後のnote。
noteやめます
最後の記事には、noteをやめる理由を書こうかとも思ったけど、なんかそれは違うなと思ったので、恋人のことを書く。
ありがたいことに、ずっと読んでもらえてる記事もあるので、そうした記事が消えちゃうのは避けるために退会はしないけど、もうここに記事を載せるのはやめようと思います。
noteをやめる理由を簡単に伝えておくとするなら、小川たまかさんが書いてくださってるこちらのnoteが、概ね私もnoteをやめる理由です。
ただ、ここで知り合えた人と関係が消えてしまうのは寂しいので、よかったらTwitterかInstagramで、また仲良くさせてもらえれば嬉しいです。
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「ずっと」なんて不確実なものを
一緒に願えることも、
「ずっと」なんて不確実なものに
見切りをつけることも、
切り取り方によっては、“愛”なんだと思う。
「恋人はどんな人なの?」
私は単純なので、好きな人がいる時には“愛”がわかった気になって、“愛”を実践できていると過信する。
一方で、好きな人と関係が上手くいかなくなると、“愛”なんてものは存在しないんじゃないかって諦めて、“愛”なんて一生わからない気になる。
で、今は好きな人と関係が良好なので、ほんの少し“愛”の尾っぽが掴めたような気がしてる。
この流動的な私の“愛”について書き留めておくことは、必ずしも無意味じゃないと思う。
今から書くことが、全部まるっと勘違いに終わったとしても、多分私の「これから」に生きてくるはず。というか、そうであってほしい。
「恋人はどんな人なの?」とか、「恋人のどんな所が好きなの?」とか聞かれると、たくさんエピソードは出てくるけど、結局上手く切り取れなくて、モゴモゴしてしまう。
恋人や、「好きな人」の魅力を形容するのは難しい。
形容してしまった途端に、恋人に対して私のその言葉が足枷みたいになってしまったら嫌だし、恋人のことを直接知らない人に勝手な恋人のイメージを植え付けてしまうのも不本意だ。
それに、形容した魅力が恋人からなくなったら、私が恋人を好きじゃなくなるみたいでなんだか怖い。
言霊じゃないけれど、言語は常に過剰で過小だから、良くも悪くも恋人の魅力をそこにはめ込んでしまう。そんな気がする。
だから、恋人からもらった嬉しい言葉や、楽しかったエピソードを書く代わりに、私が恋人に今抱いている感情を言語化することが“愛”の糸口になったらいいなと思う。
愛について。あるいは、パートナーになるということ。
恋人といる時の自分が好き。
前よりは、「一人の自分も悪くないな」と思えるようになったけど、恋人といる時の方が一人でいる時の何倍も笑ってる時間が多くて好き。
恋人に願うことは、私が寂しい時に飛んで会いにきて欲しいとか、連絡をまめに返して欲しいとか、そういうことじゃない。
もし一人が怖くなったり、何かに押しつぶされそうになったり、厄介な感情が手に負えなくなったら、私がいつだってハグしてあげられることを思い出してほしい。それだけ。
恋人との”これから”がどのくらい続くのか分からないけど、それでも私との”これから”に恋人が希望を抱ける存在で在りたい。
「幸せでいてね」と願うことは、私のエゴだと言われるのかもしれないけれど、好きな人が幸せで入れるように私ができることはなんだってしたい。
交際とか婚姻とか、そういうのをきっかけに起こる関係性の名称変更は、何のゴールにもなり得ない。だから、私は恋人の”パートナー”で在り続けるための、不断で適切な努力を続けたいと思う。
関係性の名称変更は、時に関係性の終了を招く。それがずっと怖いし、そんなのなくなったら良いのにってずっと思ってる。
「ご縁がなかった」「相性がよくなかった」そんな言葉に託けるのは簡単だけど、無理くり”パートナー”と呼び続けるに相応の理由を言うのも簡単だ。
だから、物分かりのいいふりをして自分の気持ちを我慢するのはやめたい。
だから、「孤独」が怖いのを理由に「恋人」と言う存在にはすがらないようにしたい。
「ずっと」なんて不確実なものを一緒に願えることも、「ずっと」なんて不確実なものに見切りをつけることも、切り取り方によっては、“愛”なんだと思う。
「世界中が敵になってたとしても、味方でいるからね」って誰かが歌ってたけど、“パートナー”とは、常にその人の味方でいれば与えられる称号じゃない。むしろ、味方でいることの危なさも心強さも弁えた上で、今自分はその人にとってどんな存在なのかをきちんと考えなくちゃいけない。じゃなきゃ、簡単に“パートナー”は終わってしまう。
つまり、そのくらい”愛”も”パートナー”も、流動的で断片的だ。
だからこそ、私の中できちんと”パートナー”の定義をアップデートしたうえで、それでも恋人の”パートナー”で居続けたいと願える関係で在りたい。
ここまでに書き連ねた私の感情や願いは、”愛”と呼んで差し支えのないものなのか分からない。
ただ、一緒にこの人と”愛”を学びたいと思えるのはとても貴重なことのように感じるから、温かく優しく守り抜きたい。
最近は、そんな風な結論で丸く収まっている。
結局、“愛”とか“パートナー”とかの目新しい見解を書いてなくてがっかりされてしまうだろうか。
最後と書いたけれど、「最後じゃなくなりました!」なんて言えたらいいなってほんの少しは思ってるから、こんなよくわからない終わり方にしておこうと思う。
プロダクトそのものだけでなく、企業として応援して使いたいと思えるnoteになったとき、また私の思う“愛”とかについて再考できたらいいな。
P.S. これをいつか読み返す私へ。
どうか、上で恋人に願ったこと全部、主語を「私」に変えても、叶えられている願いなのか振り返ってみて。
誰よりも長い付き合いの「私」なんだから、私の心を自分が一番蔑ろにするのだけは間違ってる。
「私」のためだけに生きなくてもいいけれど、「誰か」のためだけに生きるのもやめて欲しい。
私の人生だから。