夜風、波の問答

今日も暑かった。
気づくと散歩しないまま一日を過ごしていたので、今になって妙に煮え切らない。
夕飯に冷やし中華を食べた。
私は常のごとく食べる専門なので、調理には関わっていない。
この家のシェフである友人の提案でタコのぶつ切りが乗った。
他にはミニトマト、きゅうり、ハム、錦糸たまご。
豪華。
飲み物はレモン炭酸水。
暑くなってくると、無性に炭酸が飲みたくなる。
サラダチキンも自家製した(友人が)。
食卓も本格的に夏模様だ。

そういえば昨夜、ついに窓を開け放して寝た。
網戸だけで虫たちを拒否できるか心配だったが、それよりも蒸し蒸しした空気が寝苦しかったので、開けておいた。
駅の真裏だから、夜間も貨物列車などが頻繁に往来する。
それを騒音だとは思わない。
が、窓を開ければ、もちろん聴こえる音は大きくなる。
しかし、私はなぜか昔から線路のそばで暮らすのに憧れていたので、やはり騒音とは感じない。
実家の子供部屋でも、深夜遅くまで寝付けないとき、少し遠くに聴こえる貨物列車の音に耳を澄ませた。
特別電車に愛着があるわけではないが、電車が街を通過していくときに、自分の奥底に、何か深い感情が動いている気配を感じる。
それは確かである。

窓を開けておくと飛び込んでくるのは、虫や音ばかりではない。
匂いもやってくる。
別に近所で悪臭がするとかではない。
言っているのは、"夏の夜の匂い"のことである。
別にいかがわしい匂いがするとかではない。
季節が大気の風情に現れることである。
これは飛び込むよりむしろ、もっと自然に私を懐柔する。
浸食といった方が適切だろうか。
窓を開けるとすぐに、すっと鼻腔を抜けて私が振り返るより先に、もう背後の部屋に入り浸っている。
思うに外気というのは、かなり開けっ広げな性格だ。
他のどのビッグデータよりも、その街や空間における人々の生活を仔細記憶しているはずだが、それをあまり隠す気がない。
というより、そういうものに、大気自身があまり影響を受けていないというか。
よっぽどのことがないと、善いも悪いも一緒くたに包み込んで、自分の豊穣に取り込んでしまうところがある。

対して、水は少し排他的である。
水も大気同様、非常に記憶力に優れているけれど、これはあんまり記憶の容量ばかりに特化しすぎて、扱いに慎重さが必要なようである。
土地柄、小さく閉鎖的な内海を毎日のように眺めるので、よく思う。
海水は、船が行き来する度に、それがどのように動いたかを膨大な情報量で波として全体に伝達する。
その複雑系(波の模様)は、動く船が何隻か追加されても、それぞれをそれぞれで記憶し、一定時間各々の方向性を維持するようである。
そこで、一つの海面にいくつかの別種の波模様ができるわけだが、それらが混じりあってもう一度元の一体的な模様に戻るには、それが変化した時と同様の、あるいは、逆向きの操作を、また同じような記憶の再現強度で快復する必要があるようなのだ。
その過程において、波は、現在進行形の記憶を維持助長すると同時に、それを逆行縮小していくから、海面のフラクタル(波模様)は非常に複雑に見える。

しかし、このように記憶の面から水を捉えると、水は徹底して、時間という概念を否定しているように感じられる。
なぜなら彼らは、完全に同語反復的に振る舞っているようで、さらに同時に高度に自家撞着的であって、時間が生まれる瞬間を繰り返しているとは辛うじて言えるが、時間の持続ということに関しては非常に周到にそれを退けている気がするのだ。
「波は波たつが、波は波たって、しかし、波が波たつことはない。あるいは、波たつこともあるが、波たつときには波は波たたない。」
そういう禅問答に似た決定的な自己矛盾と論理のはぐらかしが、波の記憶には含まれている。
そして、この"含まれている"という情報の断片は、波のフラクタル構造の中で、一部において全体であるから、これはつまり、水は全体としてそのような質にあることを意味している。

なるほど、波すなわち水は、目下、最上級の論理的思考を持った記憶装置であるのだ。
いや、別に理解されなくてもいいけれど、どうしてこういう話になったっけ。
また明日。