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「マンダラ」の神秘に迫った気がした。「絵本」と「アボリジナルアート」が伝えてくれたこと

マンダラが好きです。

数あるマンダラの中で、
飛びっきりカッコよくて大好きなのが、
↑の表紙画像に使わせて頂いた、
両界種子曼荼羅図りょうかいしゅじまんだらず
胎蔵界の一部。

この神秘的な美しさに魅せられて
「広く」マンダラに興味を抱いています。

マンダラの持つ深遠さ、広大さに敬意を持って
できるだけ定義を狭めずに考えつつ
ぬり絵をしてみたり↓

マンダラ探検隊に、日常に潜む
マンダラっぽいものを見つけてみたり↓

自由にマンダラと遊んでいます。

今回は、その「広い意味でのマンダラ」を
深く追究してみます。

発端は、友達に教えてもらった、
「絵本」と「アボリジナルアート」を
楽しみながらも興味深く見つめてみると
浮かんできた「マンダラ」との共通点。

それは、「伝えるための工夫」でした。

・・・
本記事では、
マンダラの持つ本来的な成り立ちを踏まえ、
「絵本の絵」と「アボリジナルアート」との
意外な共通点を探り、
勝手ながら僕の想像を多いに含み、
楽しみながら認識を深めていく記事を狙います。

マンダラに興味のある方もない方も
何かの参考になることを願って。

この記事は約5000文字あります。



マンダラはなんのために?


マンダラの成り立ちについて触れると、
仏教の歴史に深く食い込んでいて
複雑で膨大になりすぎてしまうなので

ここでは、僕が考える本質的な部分のみを
抜き取ってご紹介していきます。

僕の部屋に掛けてあるこのマンダラは、
胎蔵界曼荼羅といって、
空海が806年に唐から持ち帰ったものを元に
改めて桃山〜江戸時代に描き起こしたものです。

今日に知られるマンダラの最もメジャーなもの。
日本にマンダラが上陸したのはこのあたりのよう。

「マンダラ」の語源から見てみます。

サンスクリット語における
「mandala」の意味としては
「円、輪、境界線あるいは集合体」。

「マンダ」と「ラ」に分けて
「本質をもつもの」という解釈もある。

チベット語では「キンコル」と言って
「円いもの」という意味。

漢訳での旧約では、「壇」とされて、
新訳では、「輪円具足」と訳されている。

以上のいろいろな意味を総合すれば、曼荼羅とは、
壇、集合体、道場、本質を備えたもの、円い形をしたものなどの意味をもつと理解してよいであろう。

松長有慶『密教』岩波新書 P156

仏教の本を多く書かれていて、
金剛峯寺の座主も務められた、松長有慶さんの本を
参考にさせて頂いております。

この本ではさらにルーツを遡ります。

曼荼羅の最も原初的な形は、土でこしらえた壇であった。土でもって壇を築き、その上に白い粉で幾何学的な模様や、神がみの像を描いた。それは聖なる空間で、天上にいる神が、司祭の祈願に応えて降臨する場所でもあった。

松長有慶『密教』岩波新書 P157

古代インドにおいてバラモン教が行なっていた儀式に、
大乗仏教で行われていた「観仏法」
(仏の有様を目の前に思い描く修行法)が合わさって、
絵画化したものが、「曼荼羅」の始まりだったようです。
これが五世紀ころ。

すごく興味深い。

僕の想像で少し飛躍させてもらいますと、
仏様の慈悲や本質を備えたものとか、
目に見えなくて実感しにくいものを、
見えるようにして表したのが「曼荼羅」であって、

仏を信じるお坊さん達が
その教えを人びとへ広く伝えるためにこしらえた
工夫の賜物のように思えてきます。

表紙画像の種子曼荼羅の全体図。前掲の胎蔵界曼荼羅と同じ構図。『空海と高野山』NHK大阪放送局より

「なんかわかんないけど超かっこいい」と、
密教に興味を持ちはじめてその哲学に浸り、
高野山にまで移り住んだのは僕です。

マンダラの神秘を見た気がして
あらゆるきっかけになって広がった。

人から人へ、何かを伝えるための工夫。

「絵本」と「アボリジニアート」との
共通点は、このあたりにありそうです。

「絵本」に描かれる絵の持ち味


絵本はほとんど読まないのですが
ひょんなきっかけで、
友達からある絵本を紹介されました。

テルマ=ボルクマン (著), シルビー=セリグ (イラスト), 花輪 莞爾 (翻訳)、偕成社

小さな木は人間と一緒に暮らしたいと思い、森からぬけだして歩き始めました。さまざまな人間に出会って成長する小さな木の物語。

柔らかい言葉遣いとゆるやかに描かれる健気なお話で
癒されながら楽しんだわけですが、
描かれている絵に、注目してしまいます。

とくにラストに描かれたこの絵が

テルマ=ボルクマン (著), シルビー=セリグ (イラスト), 花輪 莞爾 (翻訳)、偕成社

なんとなく、マンダラを見たときの感覚と
似ていた気がするのです。

同じようなもの(葉っぱや羽)が連続して
広がっていく感じとか、
意味が絵の細部にギュッと含まれる感じ。

見入っていると、その友達は
さらに興味深いことを教えてくれました。

「絵本の絵は、こういう感じに
二次元で描かれることが多い」と。

どうやら絵本は、立体に見えるような画法を
あえて使わず、平面として見せるような絵が
ほとんどだとのこと。

全然知りませんでした。

ざっと見た感じ、まさしくそのようで
ほとんどが平面として描かれています。

なんでだろう。

例えば漫画みたいに、
あらゆる技法を使ってリアルにキャラクターを描いて、
臨場感ゆたかに物語を展開するものとは
逆方向の意味合いを持っています。

単に子供向けだから、親しみやすく好まれる絵で
作られているというのでは、足りない気がします。

そこで改めて絵本を読んでみると、
やさしい言葉で綴られた
豊かで広がりのある文章によって、
ふんだんに「想像の余地」が開かれていることに気づきます。

ずっと昔に忘れていたような
のびのびした、こそばゆい感覚が
思い出されるようで。

テルマ=ボルクマン (著), シルビー=セリグ (イラスト), 花輪 莞爾 (翻訳)、偕成社

「お日さまが きらきら ひかる、
小さな はらっぱが ありました。」

もしここに描かれる絵が、
陰影や立体感があってリアルに描かれていると、
「パパの木 ママの木」というのが
想像しにくくなってしまう。

読者がこの物語に入っていくためには
こういう曖昧で抽象的な絵でないと
成り立たないというのがわかってきます。

絵本に親しんでいる方にとっては
当然のことかもしれませんが
僕にとって、この独特な絵作りが
印象深かったのです。

マンダラに似ていると感じたのは
とくにこのあたりでした。

大きいと小さいの区別はあるようですが
遠い近いとか、陰影による立体感はほとんどなく、
平面に描かれています。

仏様の姿や真理のありようなど
目に見えないものを
人びとに見せるために描かれたマンダラと

読者の想像を大きく惹き起こすために
二次元で描かれた絵本の絵。

全然違う成り立ちを持った二つが
深いところで共通していたようで
なんとも不思議な感覚を味わいました。


アボリジナルアートの伝承


マンダラと絵本の意外な共通点を
見つけてウキウキした僕たちは、

またぞろマンダラらしきものに出会います。

部屋の奥から取り出してきた、
オーストラリアのポストカード。

「マンダラだあ・・・」

異次元に迷いこまされるような感覚と
緩やかに醸される規則性と拡大感。

調べてみると、
「アボリジナルアート」という
オーストラリア先住民が古くから伝えられる
絵画だそうです。

引用元:https://www.webcreatorbox.com/inspiration/aboriginal-art

もうこの時点で
マンダラらしさがゴリゴリと感じられてくるのは
僕だけではないはず。

ルーツを辿ると、洞窟の壁画にも見られるようで
現存する文化の中でも
最古のうちの一つと数えられるほど
途方も無い歴史を持つようです。

マンダラの発祥地であるインドや
広がった先のチベット、中国、日本などとは
海を隔てて約7000キロも離れた地である
オーストラリアで
なぜこれほどまでに似た絵画が現れたのでしょうか。

ネット上で調べた限りでは
この関連でまとめられた資料は見当たらず
手元にあるマンダラ関係の書籍にも
アボリジナルアートに絡めた記載は
見つけられませんでした。

ですので、また勝手ながら
僕の想像で掘り下げてみることにします。

引用元:https://www.webcreatorbox.com/inspiration/aboriginal-art

とくに凄いと思ったのはこの絵です。

魚が描かれている通り、水中のようではあるのですが
煌びやかすぎる鱗とヒレ、
丸がひしめく幾何学模様、右上の手形?
足跡のような黒い模様もある。

私たちの目には見えないものが
堂々と描かれています。

存在しないものを二次元に落とし込んだのが
マンダラだとお伝えしましたが、
このあたり、共通するものが見られます。

さらに大事だと思うのは、
アボリジニは文字を持たないということ。

書いて遺したり、それを読んだりといったことをせず、
話し言葉と絵画(壁画含む)を使って、
コミュニケーションや文化の伝承を行ってきたのです。

私たちは当然のように文字を読み書きして、
物語を楽しんだり、思いを伝え合ったり、
世界を捉えたりしています。

スマホやパソコンは文字がないと成り立たないし
街に出ればひしめくような看板と広告文。
何かを勉強するには本を読んで、
書いて覚えたりする。

もし、これらが全てなかったとしたら
世界の見え方や元となる思考方法までも
全く違うものになってくるでしょう。

たぶん、世界にアクセスする感度や感覚が
根本的に違っていて、
私たちには見えないものが見えているとしか
思えないような世界が、
絵に込められている気がします。

それは、仏を信じる仏教徒たちが見た
人びとに広めたかった世界と
共通する部分が多くあるのでは、と思えてくるのです。

また文字を持たないぶん、
伝達したい内容を直接的に残せないので
あえて抽象的に描いて、
想像を働かせられるような余地を含んで
意味を喚起できるようにしたのでは、
と思えなくもありません。

「絵本」の絵がリアルでなかったのと同じように。

・・・

さらに興味深いのは、
アートとして引き継がれた要素は薄いですが
原初である壁画の段階で、シンボルによる
意味付けはあったようです。

引用元:https://media.thisisgallery.com/20207971

人びとの生活に関係の深いものが
多くシンボルとして使われていたようです。
生きていくための知恵が込められていそう。

文字ではないけど、そこに意味を含めて
「絵」として伝承されていった。

絵に対峙するとき、文字を持たないぶん、
「意味」「伝えたいこと」「役割」
「アート」「絵画」「美しいもの」・・・
このあたりの境界線をはっきりさせず、
いい具合にブレンドされたものとして
現されたのでは、と想像します。

このあたりも、
マンダラに描かれた仏の一つひとつに意味を込め、
教えをわかりやすくするためになされたことと
似ているような気がしてなりません。

引用元:https://ohakakiwame.jp/column/memorial-service/bonji.html

表紙画像のマンダラに描かれている梵字。

意味と情報の凝縮感も、マンダラの一要素だと思っています。

なぜアボリジニが文字を持たなかったのかは
わかりませんが、
私たちとは全く違った媒体を通して
世界にアクセスして、そこから受け取った「何か」を
広く人びとに伝えようとしたのは間違いないようです。

私たちにとって異次元とも言える
美しい世界を表したアートが
マンダラとほんのり似通ってくるというのは
そう不思議な話ではないのかもしれません。


まとめ


広くマンダラの認識を深めようと、
「絵本」「アボリジナルアート」という側面から
似ているところを考えてみました。

それぞれに共通しているのは、
「目に見えないものを見えるようにしたい」
という思いと、それに込められた「工夫」だと思います。

その結果、どうやら、
リアルに具体的に描くというのとは
逆の方向に向かうようです。

抽象的に、曖昧さを残すことで
想像の余地が生まれ、伝えたいことが
伝わりやすくなるという意外な原理が
おぼろげながら浮かんできた感触があります。

僕の妄想とも言えるような変な想像に
お付き合い頂き、ありがとうございました。

この想像を掻き立たせられるような働きも
マンダラの持つ広がりの一部なような気がして
不思議な思いでいっぱいでした。

※「アボリジニ」という言葉には解釈によっては差別的な意味が含まれる向きもあるそうですが、ここではそういった意図は含まないことを明記します。

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