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「言葉」だけが僕を助けてくれる

「言葉」って不思議な感じがする。
人間は、生まれも育ちも、これまでの経験も、何一つとして同じものはない。僕はもうすぐ26歳になる。僕と同じ25年間を歩んできた人もいない。

相手の気持ちを理解する、なんてことも本質的にはできない。
普段何気なくつかう「きれい」とか「かわいい」とか「苦しい」とか「楽しい」とかそういう感情や感覚も、人によって同じではない。
だから、そもそも自分自身のこと以外を理解することなんてできないはずだ。

誰かと同じ景色を見て、「感動するね」というとき、僕はいつも寂しい気持ちになってしまう。伝わっているようで、伝わっていない、そういう無力さを感じてしまうからだ。

でも、無力だからこそ「言葉」にして相手を理解したり、自分を理解することが僕は好きだ。
「言葉」だけが自分と他の人とを近づける、唯一の道具だと思うからだ。
僕たちにはもう「言葉」しか残されていないんだ。
できる限り自分の持っている道具である「言葉」をかき集めて、絶対に届かない他者にむかって橋を作っていく感覚だ。
絶対に橋は向こう岸に到達しない。それはわかっている。
でも、できる限り近づかないことには相手のことなんてわかりようもない。

どこまで相手に近づくことが出来るか。
どこまで、相手に近づいてもらえるか。
そういう、苦しくて厳しくて、でも温かみのある行為が僕はとても好きだ。

僕が日記を書き始めたのは、大学生の時からだ。
日記を書き始めた当初と今とでは、全く感じるものが違う。
今、なんのために日記を書くのかといわれれば、それは橋作りの練習なんだと思う。
他者に橋をかけるためには、まず、自分の土地が整っていないといけない。よく、自分に余裕がないと他人のことなんて気にかけられないって言うけれど、その余裕を生み出すのが僕にとっては毎朝書いている日記である。
自分の中にあるもやもやとした形のないものをどんどん「言葉」にしていく。そういう作業を毎日毎日くりかえして、自分の土地を整えている。

現実社会はとても忙しい。あっという間に時間が過ぎてしまって、僕ももうすぐ26歳になってしまう。脂っぽいものは食べれなくなるし、ご飯は少なめでいいし、運動も少しおっくうになってしまうし、疲れてだらだらと面白くもないテレビを見てしまったり、そんなことも増えてきた気がする。

だから、そういうものと少し距離を置いて、日記を書いたりnoteみたいに文章を書いたりすることを何よりも優先して続けていきたいと思う。

それだけが、僕と僕以外の誰かを近づける、唯一の方法だから。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。