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シリアスゲームをつくるプロセスが生む、大きな大きな可能性

この投稿では僕の取り組みの一つである「シリアスゲーム」の持つ価値について掘り下げていきます。自分の体験やいま実際に二つの大学で取り組んでいるシリアスゲーム作成プロジェクトなどから感じる、「シリアスゲームをつくるプロセス」が持つ可能性を言葉にしてみました。

「人の変化や成長」と「社会問題の解決に向けた一歩」を接続させて化学反応を生み出す、これまでにないようなアプローチだと本気で感じています。教育の現場にいる方、行政の方、社会問題の解決に向けて活動しているプレイヤー、まちづくり分野などで活躍されている方に触れていただきたいテーマです。


01.シリアスゲームって何ですか?


シリアスゲームとは「社会問題の解決を目的にしたゲーム」と言われています。
日本ではまだそれほど多くの数がありませんが、アメリカやオランダでは広まってきている社会問題に向き合う手法の一つ。徐々に日本での数も増えてきて、コレからも伸びていくことが注目される分野です。

例えばアメリカでは「貧困層の生活を擬似体験し、そのまま寄付できる動線を作っているシリアスゲーム」が存在しています。僕が一緒にゲームづくりをしている方は「熊と人がどう共生していくかを考えるゲーム」を作っていたり、また別の知り合いは「男性が女性の生理を理解するためのゲーム」を作っていたりします。

テーマとする社会問題は様々ですが、その社会問題を「ゲーム」に落とし込む。ゲームという手法を取るからこそ参加者に認知・行動の変化を生むことができる。そんなシリアスゲームの価値について少しずつ理解が広まってきていると感じます。


シリアスゲームをプレイすると、こんなコトが起こります。

▪️当事者意識の獲得
ゲームが設定した「役割」を持つ。(例えば社会問題の当事者など)
その当事者が感じることや行動を「ルール」によって追体験できるので、相手の立場や感情を理解することができる。

▪️対等な立場での対話
ゲームのプレイ中は現実での「立場」は関係なくなる。ゲームが設定した役割上でのコミュニケーションとなるため、普段は出てこない言葉や対話が可能になる。

▪️仮想世界だからできる挑戦
現実には躊躇してしまうような選択肢も仮想現実の世界だからトライできる。トライした結果を受け止めることができれば現実の選択肢の幅も広がる。

▪️認知のジェットコースターが気づきを誘発(具体と抽象、構造と個別体験)
メタ的な視点でテーマ全体を見下ろすこととプレイヤーとして没頭することから感じられることの往復が思考を揺さぶり、思いもかけない発見を生み出す。

京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから
京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから
京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから
京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから


一方で、いま認知されているコレらの価値は「シリアスゲームをプレイする価値」です。プレイする価値自体はとても大きく意味のあるものではありますが、実はそれ以上に「シリアスゲームをつくるプロセス」に意味があると感じています。

この価値を得るのは「シリアスゲームの作り手」です。そして、「つくる価値」を突き詰めていくことが、この国・社会の問題解決に一石を投じると感じています。

それだけのエネルギーがある、ポテンシャルがある、可能性がある。「シリアスゲームをつくるプロセス」から得られる価値を、今まさに掘り下げていってる道中なのです。(特に僕はアナログのシリアスゲーム(ボードゲームやカードゲーム)などを作るプロセスに言及します。)


02.ゲームづくりから得られるモノ


では、シリアスゲームをつくることで作り手には何が生まれていくのか。大きく3つの要素があると感じています。

  1. 問題を含むテーマの構造化がゴリゴリ進む

  2. 思ってもみない解決策が発見できる

  3. しなやかで強い意志を育てていくことができる

これは、ゲームづくりだからこそ得られる結果であり、ゲームづくりだからこそ際立つ要素でもあります。

そもそもシリアスゲームとは「メッセージを含んだ仮想現実と、その体験」と言い換えることができます。これを作るプロセスで必要な知識・経験・意志がジワジワと育っていく。仮想現実を自分たちの伝えたいメッセージに基づいて設計し、そのメッセージが伝わるような体験を作ろうとする。

ゲームを作ろうとするからこそテーマを構造で捉え、テーマを構造で捉えるから解決策を発見し、構造と解決策の両方からメッセージを見出す中で自分の意志とも向き合い続ける。そんなプロセスだからこそ、3つの要素が育っていくのです。


2-1.問題を含むテーマの構造化

構造化力とはこれからの世の中で強く求められているモノですね。でも一体全体どうやってそのチカラを身につけていけばよいのか。そもそも社会問題における「構造」とは何なのか。明確な定義はないですが、ここでは僕なりの捉え方をお話ししてみたいと思います。

社会「問題」であるからには、何か困っていることがあるわけです。これが表面上に浮かび上がっている一つの「出来事」ですね。その「出来事」には「当事者」が存在します。また、当事者に影響を及ぼしている「関係者」もいます。関係できそうだがそこに関わっていない「周辺の人」や、ときには「傍観者」もいるでしょう。人だけで考えてもたくさんの要素が存在しそうですね。

その人はときに「集団」になっていきます。共同体、組織、あるいはフワっと認識される属性による集合体。それぞれが何らかの行動規範や性質を持って行動します。お互いに異なる理想を掲げ、ときにそれがコンフリクトしている。

また、個人や集団に影響を及ぼしている「文化・空気」「技術・ツール」「制度・仕組み」などの外的な要因も関わりあったり、あるいは個人や集団の「認識」「知識」「価値観や固定観念」なども関係する要素になってきます。さぁさぁますます複雑になってきました。

これら複数の要素が関わり合い絡み合い何らかのエネルギーを発することで、特定の誰かを困らせる「出来事」が起こる。その「要素同士の関わり合い」が構造と呼べるものです。

また、構造にはその「出来事」に至る前の「背景」が存在します。あるいは「出来事」が発生した後の「影響」も存在します。時間軸の前後を見ることで要素同士の複雑な関係性を紐解いていくことになります。

「構造」は動的なモノです。静的に捉えることはできません。要素同士の関連性を「並べただけ」では構造を紐解いたと言えず、それが「時間軸の変遷の中でどう推移していくか」を見つめることが構造を理解するということだと考えています。改めて言葉で表現してみると、めっちゃ難しいことですよね。

京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから
京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから
京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから

例えば構造を理解するための思考ツールとして「ロジカルシンキング」や「システムシンキング」などが挙げられるでしょう。ですが、そのどちらも「要素同士の関連性」と「時間軸での変遷」を追いかけるには不十分だと感じています。

確かにシステムシンキングは時間軸での変遷も構成要素の中に組み込んでいますが、それをダイナミックに感じ取れるかと言えばまた別だと感じています。(今後ツールが発達すれば出来るようになる可能性もあると感じています。)

そして、「構造を理解する」とはメタ視点だけで理解するだけではありません。その中に潜む「当事者」「関係者」など、テーマに関わる人がどんな体験をするのか時間軸で追体験することだと捉えています。これを僕はメタ認知に対するベタ感知と表現しています。「デザイン思考」的と表現してもいいかもしれません。

神の視点からテーマの全体像を捉えるだけでなく、その構造の中で生きる人に何が起こってどんなことを感じているのか追体験することができて、ようやく構造理解をしたと言えるのだと捉えています。メタとベタ、上空と地上、俯瞰と主観、この往復ですね。ちなみにこの「往復」や「移動」というキーワードは後にも出てきます。

シリアスゲームはこのような「構造理解」を作成プロセスで少しずつ培っていきます。

どんな当事者や関係者、その他プレイヤーや脇で見ている人が存在するのか、その人たちは何を考えどんな行動に出てその結果何が起こっているのか。一つ一つの要素を紐解き、テーマとする問題の前後でどんな背景があり・どんな影響が生まれるのかを可視化していく。

可視化を進めれば進めるほど、構造と自分との接点も自然と見えてくる。遠いと思っていた社会問題が実はすごく身近なことであると気づいたり、自分と関連しているテーマであると実感できるようになる。ときに自分自身がその問題を形成する構造に加担していると気づいてショックを受けることすらあります。

つまり、構造化は実は後にふれるメッセージともつながるのです。ゲームにしようと構造を理解すればするほど対象と自分とのつながりを見出し「自分ごと化」も進んでいきます。

さて、シリアスゲームは「メッセージを含んだ仮想現実と、その体験」と表現しました。つまりここに作るプロセスで培った「構造理解」が反映されていきます。

構造を踏まえた仮想現実だからこそ、プレイヤーはその体験を通して多くのことを学びとる。あるいは構造を踏まえた仮想現実だからこそ、どこに状況を動かし始める「最初の一歩」が潜んでいるのかを発見できる。そんなことがゲームづくりを通して起こります。

ゲームであるからには、プレイヤーには何かしらの目的が存在します。個別のプレイヤーで勝敗を競うのか、あるいはチーム戦にするのか、ときに参加者全員でワンチームのフォーマットを採用することもあれば勝ち負けの存在しないコミュニケーションツールとしてのゲーム形態も存在します。どんなゲームのルールを設計するかどうかは、自分たちが伝えたいメッセージによって変化します。

例えば、勝ち負けのあるゲームで考えてみましょうか。この場合は何をもって勝利と位置づけるのか、あるいはゲーム中のどんなイベント・選択が勝利に結びつくのか、ここに「ゲームを通してどんなメッセージを伝えたいのか」が現れてきます。ゲームは没入感を生みやすいので勝ち負けのあるゲームの場合、自然と勝ちに結びつく行動を取ろうとします。その行為が伝えたいメッセージとどう関連しているのか、スタンスと体験を紐づけることが必要になってくるのです。


2-2.思ってもみない解決策の発見

さて、「構造理解」が進んでいくなかで同時に「思ってもみない解決策の発見」が起こることもあります。

コレを引き起こすためにシリアスゲームづくりで大切にしていることがあります。社会問題に対する解決策までを仮説でも丁寧に考えてみようとすることです。単に問題を知ってもらったり、その問題に対して考えてもらうキッカケを提供するだけでなく、作り手自身が仮説としてでも「解決策」を考えることが大切だと感じています。

もちろんそんなにカンタンに社会問題は解決しない。自分たちが思いつくようなアイデアなんてどこかの誰かがすでに実践していたり、実践しようとしているが何か別の問題によって阻まれていたりする。それでも解決策を自分たちなりに考えてみようとすることは大切なのです。

なぜなら、解決策を考えようとするから問題の構造理解はより深まっていくから。解決策とは構造を動かそうとする働きかけです。構造を見つめて解決策を思い描いたときに、その解決策が本当に駆動するかを構造に戻って考えてみる。すると構造の理解が不十分なことに気づいたり、構造の中に存在するボトルネックが見えてきたりする。でもコレは解決策を考えようとしないと気付かない。解決策を考えようとしたときの構造理解と解決策を考えない構造理解では深度が全く異なってくると感じています。

解決策を考えようとするから構造理解が進む。構造理解が進むから解決策の精度も高まっていく。最終的に「コレだ!」というモノに辿り着けるかどうかは分かりません。深まったようでいて、でも実は既に手垢のついたアプローチかもしれない。しかしそうであったとしても、ゲームを作ろうとする「作り手」の認識はアップデートされ続けていきます。構造理解も解決策の導き出しもアップデートされ続けていく、だからこそ「思ってもみない解決策を発見できる」ことに繋がることもある。

導き出した解決策がゲームそのものに反映されていたときに、当事者はより深く「考える」ことが出来るようになります。ただ単にそのメッセージを「受け取る(信じる)」わけではなく、「考える」です。考えるとときには賛成、ときには反対の意見も出てきます。しかしそんな反応を引き出すのは何かしらの仮説が組み込まれているかどうかです。自分たちの仮説をアンカーにして、プレイヤーは思考を深めていく。しかしアンカーがなければ思考は深まらない。具体が必要になってくるのです。


2-3.しなやかで強い意志を育てる

さて、そこでさらに大切になってくる「しなやかで強い意志を育てる」とはどういうことか。

先ほどから何度か「メッセージ」をゲームに込めると表現してきました。ではそのメッセージとはどんなモノを背景に導き出された言葉なのでしょうか。よくある「みんなで考えましょう」「コレは問題だから何とかしなきゃいけない」というメッセージも別に間違ってはないし、最終的にこういうメッセージに行き着くこともある。でも、そこに自分自身の「意志」が介在したメッセージになっているかどうかが非常に大切です。

そもそもなぜそのメッセージを伝えたいのか。伝えたいと自分自身が思う背景は何なのか。そこには自分自身のどんな価値観やモノの捉え方が存在するのか。コレらが言葉になってきてようやくメッセージになります。価値観と結びつかないメッセージはメッセージとは呼べず、単なる文字列です。誰の心にも残らない、そもそも自分自身が本気でそう信じていない。その文字列から生み出される体験は行動や意識の変容を生まない。

しかし、意志と結びついたメッセージを導き出すことは容易ではないのです。最初から自分の価値観の奥底にダイブして、構造理解と解決策をつなぎ合わせたメッセージを発することが出来る人など、そうはいません。

そもそも構造理解が異なればメッセージも異なってきます。構造に対する認識の変化によって、自分たちの伝えたい言葉が変化するなんてよくあることです。メッセージは構造と解決策と価値観の相互作用によって生まれてきます。つまり、何か一つがアップデートされれば別の要素もアップデートされる。常に考え続けることになるのです。

しかし、この「行ったり来たり」のプロセスが、多角的に見ることを推し進めます。構造を多角的に捉え、解決策も多角的に捉え、予想外なことに自分自身の姿すら多角的に捉えます。そのプロセスのなかで「ここだ」と意志が育っていく。メッセージは一気に決めるわけでなくシリアスゲームの作成プロセスの中でジワりと育っていくのです。それは価値観や意志と接続したメッセージ、だからこそしなやかで強いモノとなっていくのです。

ちなみに、世間で認知されている思考法で表現するならばロジカル思考×システム思考×デザイン思考×アート思考のハイブリッドだと言えます。というより、本来の社会問題は一つの思考法だけを軸に突破できるものではなく複合的な思考と実践の組み合わせによって解決につながっていくものだとも感じます。


03.シリアスゲームだからこそ実践できる作り方と、その作り方が生んだ価値


シリアスゲームづくりの中ですることは主にこの3つです。先ほどから再三出てきているワードなので「またか」と思われるかもしれませんがお付き合いください。

  1. 構造を理解する

  2. メッセージを設定する

  3. 体験に落とし込む

この3つの要素を行ったり来たりします。行ったり来たりがポイント、決して「ステップ」を踏んで進んでいくわけではありません。

京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから

最初だけは構造理解とメッセージ設定を先にやってから体験に落とし込みます。しかし体験に落とし込むとまず間違いなく「構造理解」や「メッセージ」の不十分なところに気づき、コレらをアップデートさせるためにリサーチしたり自分たちに向き合ったりします。その先は都度対応する3つの要素を行ったり来たりする。

何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もプロトタイプを作っては壊し作っては壊し作っては壊し、ときにそもそも論に立ち返りときに体験の精度を微調整し、コレを何度も何度も何度も何度も何度も繰り返す。完成直前ギリギリの状態であっても新たな発見があればちゃぶ台をひっくり返す。これがシリアスゲームづくりのプロセスです。

京都文教大学・同志社大学シリアスゲーム作成プロジェクトのスライドから

そんなまどろっこしいことしなくても、先に「構造理解」と「メッセージ」を十分に練り上げてから体験の設計をすればイイんじゃない?、そうすればわざわざ戻ることもなくスムーズにゲームづくりが出来るんじゃない?と思われるかもしれませんが、僕の感覚ではコレは無理です。むしろ「いつでも立ち戻れる」ことから生まれる気づき・発見・認知の変化がシリアスゲームづくりの良いところでもあります。

ここには「コンセプトを固めてから具体的な方法を考える」という一般論的なモノゴトを推進させるうえでの常識は果たして本当なのだろうか?という疑いが存在しています。もちろん、そうは思わない、反対意見をお持ちの方も多いことは重々承知のうえですが、でもシリアスゲームづくりであれば、この常識とは異なる作り方ができるのです。

異なる作り方が違うからこそ、異なるモノが見えてくる、異なる体験が生まれていく。逆に常識に沿うのであればシリアスゲームをわざわざ作らなくても良いかもしれない。コレまでの手法で体系化され洗練されてきた手法を使う方がよっぽどスマートです。そうではないアプローチから見えるモノがあるからこそのシリアスゲームであり、僕自身はこの一般論的な常識を疑っている面があります。

具体と抽象という言葉がありますね。ここではコンセプトは「抽象」と表現しても良いでしょう。シリアスゲームにおいては伝えたいメッセージや世界観がソレにあたります。「具体」は作り上げられたゲームの体験です。ゲームの構造にメッセージが反映されていれば具体と抽象が繋がっていると言えるでしょう。

コンセプトを立ててから体験を設計するとは、抽象を固めてから具体を考えるアプローチです。一方通行で差し戻しのない道のりです。しかし、そもそもそんなことができるのでしょうか。みんなソレが当たり前だと思っているけど、本当だろうか。この点は僕がずっと抱えていた疑問でした。

人は具体的なモノを見ないと抽象がイメージできません。愛とは何かという抽象概念だけで語ろうとしてもソレは難しく、でも「こういう行為って愛だよね」と表現することはできます。愛だけを「抽象」の世界で思考をしようとしても何も進みません。取っ掛かりは「具体」の領域にあります。

具体から抽象に戻り、抽象を踏まえてまた具体に落とし込む。抽象が本当にその抽象でいいのかを判断できるのは具体の姿を見たときだけ。だからこそ具体と抽象は双方を行き来しないといけないのです。

よく「具体と抽象の往復」と表現されることが多いですが、コレは言葉の持つイメージから誤解を与えてしまうと感じています。厳密には抽象Aから具体①が導き出されたとき次に導き出されるのは抽象Bです。さらに抽象Bから具体②が生まれ、それをキッカケに抽象C→具体③→抽象D→具体④と変化し続けていきます。

だから僕は「具体と抽象の移動(行き来)」と表現しています。単に言葉のイメージを調整しただけなのですが、往復だと同じ箇所を行きつ戻りつしているように感じてしまうので、移動と表現しているのです。

コレがどうも抽象を固定して抽象A→具体①→抽象A→具体②→抽象A→具体③と一箇所のアンカーを定めてしまえるように感じていることが多いと受け取っています。でもコレって実は不合理なんだと思うんですよね。ココはあくまで個人的意見なので、違うと思うなら聞き流してください。

しかし、そうは言いつつも世の中のプロジェクト推進や様々な企画のあり方が抽象を固めてから具体に進もうとする。コレ実はすごくハードルの高いことをやろうとしているのではないかな?と感じているのです。

実際の現場で具体と抽象を往復しながら物事に向き合えるなら全然ソレで良いのですが、しかしモノをつくる・何かを生み出そうとする活動の中で、ステップを踏まずにいわばスパイラルを描いて向き合うことは容易ならざることなのでしょう。

だから僕はこの一般論的なコンセプトを固めてから具体的な方策を考える常識は「致し方ない状況の中で生み出された最善の知恵」によるものだとも感じます。要は工夫によって生まれたものであって、論理的に導き出された方法論ではないのではない。でも、だからこそ否定するわけでもないのですが、この方法を取らなくてもいいアプローチがあるのであれば是が非でも実践しちゃえば良いのにと考えたりもします。

実際、もうすでにシステム開発の世界では「アジャイル」という言葉が生まれていますね。これも一方通行ではない「具体と抽象の移動」による推進プロセスの具現化だと思います。方法論によって、いままでは「できないから仕方なく」で実践していたアプローチとは違う角度のアプローチが生まれていく。具体と抽象の移動が「できる」ようになっていくことは魅力的だと感じています。

さて、具体と抽象を移動するからそれぞれがどんどん変化していく現象を、ゲームづくりの「構造理解」「メッセージ」「体験」に落として考えてみるとどうなるのか。

スタートの段階では「構造理解」「メッセージ」をふまえて「体験」に落とし込んでみます。「体験」とはゲームのプロトタイプです。プロトタイプをプレイしてみると「構造理解」「メッセージ」の不足部分や方向性のズレに気づいていきます。

再三申し上げますが、「構造理解」「メッセージ」を十分に固めてから「体験」を設計することは無理です。「体験」するからこそ「構造理解」と「メッセージ」のズレに気づくのです。身体知を伴った具体でなければ抽象のメッセージが果たして自分たちの持つ価値観や意志と一致しているのかどうかは分かりません。

本気で伝えたいと思うこと、価値観と接続したメッセージを見出せるからこそ体験の精度が高まっていくわけですが、体験をすることからしか価値観と接続するメッセージを見つけられない。つまりこの両者は何度も何度も行き来をするからこそ見つけられるモノなのです。

シリアスゲームのプロトタイプはとてもカンタンに作れます。例えばカードゲームなら紙を切ってそこに手書きで文字要素やイラスト要素を落とし込んで見ればいいだけです。プロトタイプをプレイしたことから感じたこと、見えたことをふまえて構造理解やメッセージをアップデートさせていく。もちろん体験の精度そのものもアップデートさせていく。そんなサイクルを何度も何度も何度も回転させていきます。

プロトタイプは手書きで十分に検証できる

シリアスゲームは「完成品に近い体験ができるプロトタイプ」まで容易に辿り着ける。コレがシステム開発・サービス開発・プロダクト開発、あるいは制度設計などといったモノであるならばそうはいきません。

だからこそ世の中の何かを作るプロセスはコンセプト設計を最初に固めたうえで具体的な制作に進むのですが、シリアスゲームはそのプロセスに則らなくても制作が進められる。そして、則らないからこそ構造理解やメッセージをアップデートし続けられる。このプロセスの中では「思いもしない解決策」が見えてくることも、よくあるのです。

しかも、ゲームづくりを始めた最初の段階ではまだまだ明確に言語化された意志と呼べるものまでは至っていないことが多いです。いや、自分では意志まで至っていると思い込んでいると表現した方が適切かもしれません。思っている以上に僕たちは「自分の内にある想い」の姿を正しく掴み取ることができていないのです。

「こんなメッセージを伝えたい」「こんな世界観を実現したい」「背景にある価値観はこうだ」などなど、一見すると明確な言葉になっているようですが、これが本当に自分の奥底から湧き出てくる魂の叫びかどうかは分かりません。

その正体を掴み取るのは「抽象」の世界だけで思考をしていても難しいのです。「本当はどんなメッセージが伝えたいんだろう?」「自分はどんな社会を実現したいんだろう?」と思考してみることは重要です。しかしこれを「思考の世界」かつ「抽象の世界」だけで固めようとしても、奥底にある想いには気づかない。だからメッセージを反映させた「具体的体験」が必要になるのです。

ゲームの体験にメッセージを落とし込んだとき、いま言葉にできていたメッセージの奥にある想いに気づくことができる。体験を通した身体知と結びつくからこそ、自分が何を表現したいのかが見えてくる。プロトタイプを作り、それを体験することで自分の奥底にある想いにアクセスができる。

一度のプロトタイプ制作でそこまで辿り着けるかどうかは分かりません。しかし、シリアスゲームは何度でも容易にプロトタイプを作ることができる。だからこそ「徐々に」自分の奥底にある想いにアクセスすることが可能になるのです。

一度目よりも二度目、二度目よりも三度目、少しずつ内なる想いが自分の中でクリアになっていくのは、自分の外にある身体知と結びつく体験からです。シリアスゲームがプロトタイプを何度も何度も高速で作り、構造理解やメッセージを高速でアップデートできることによって、こんな意味が生じてくるのです。

実際にコレは自分自身がゲームづくりをしていたときにも起こりました。

キャリア教育の文脈で使えるような「人生の選択」を擬似体験できるゲームを作っているときに、当初は「自分が持っている手札の中から何を使い、何を捨てるのかを考える」ことを考えてもらおうとゲームを作っていました。このゲームは最終的な得点配分が決められており、高得点を取るための色んな選択を自分が持つ手札の中から葛藤しつつ選んでいくというモノです。

ですが、ゲームを作ってみたからこそ違和感が自分たちの中に生まれます。与えられた手札のカードから何を選ぶのかは大切だ、だけど何を軸にして手札を選択するのかの方が重要ではないのか?と。当初のゲームだと選択基準は自然とルールで定められた高得点が取れそうなモノとなります。しかし何をもって高得点とするかどうかはその本人が決めることであり、ゲームのルール側でコントロールするものではないのかもしれない。

そう考えて行った時に、ゲームのフォーマットや方向性自体がガラリと転換し始め、「選択」を考えるゲームから「価値観」を考えるゲームに移行していきました。可視化され体験に落とし込まれたプロトタイプがあるからこそ、自分たちの奥底にある想いの正体に目を向けることができるのです。

誤解なきようお伝えしておくと、自分たちの想いが「選択」にあるのであれば最初のゲームのままで問題ないのです。何が正しいかではなく、何を届けたいか、その内なる想いの表出化にプロトタイプを作りまくるサイクルは寄与してくれます。

構造理解が進むほどに複雑な要因が関わり合い目の前の「問題」が生まれていることに気づいていきます。あらゆる問題はあらゆる問題へとつながっている。その広がりは無限のようであり、そこまで考えると哲学としての仏教的な世界観になってきます。

しかし現実社会を生きていく僕たちはどこかで線を引かなければいけません。線を引くことは、認識を固定化させることでもあります。知らず知らずのうちに引いていた線は固定観念となっていますが、自らが自由に設定した線は意志に変化していきます。

構造理解と意志とが交わり合い一つのメッセージに昇華されているとき、構造に対して何かしら自分なりの「新たな線」を引くことができているでしょう。その線は明確な境界線を描いているのか、緩やかなグラデーションを描いているのかは分かりませんが、主体的な意志を持ってテーマとする領域を捉え直しているはずです。


04.いまの取り組み(京都の二大学と連携したシリアスゲーム作成)


いま、「アルコールと社会問題」をテーマに京都文教大学と同志社大学の二つの大学で学生たちと一緒にシリアスゲーム作成に挑んでいます。しかし一言で「アルコールと社会問題」をテーマにするといってもその領域は非常に広く複雑です。

京都文教大学
同志社大学

依存症・アルハラ・飲酒運転といった分かりやすくアルコールと紐づけられている社会問題、アルコールが一つのフックになって起こる暴力・性犯罪・事故、あるいは長期の接種によって起こる健康問題、これらの問題に対して生じる医療費などの社会的なコスト、メーカーや小売店は売りたいがマーケティングによって問題が肥大化している面と経済行為の自由を保障することのコンフリクト、アルコールにまつわる自己責任論と社会システム・風潮によって生まれる問題との対立などなどなど・・・

サラっとあげた中でも一体何をテーマとして扱うのか、その領域はとても広いのです。この中で自分たちが一体何をテーマと位置付けるのか、自分たちの価値観と向き合いつつ考えていきます。しかし、自分たちが「扱いたい」と思う背景は、単なる固定観念や知識の不足から起こるものではないかといった、そもそもの「自分たちの捉え方」に対しても意識を向けていきます。

僕自身、このテーマに関わる中で様々な問題や事象の関わり合いを学び・紐解いているところです。問題そのものの出来事だけで留まらず文化・風潮、あるいは歴史といった観点からもこれらを見つめています。そうしないと構造理解もメッセージを生むことに対しても、いいアドバイスはできないから。テーマそのものに対する理解も、価値観の奥にダイブするアプローチも、体験に落とし込む方法論も、すべてが接続してこそのシリアスゲーム。

もちろんゲームづくりは「作っては壊す」サイクルです。限られた講義回数の中でできる範囲なのでモチロン限度はあるのですが、プロトタイプの体験に落とし込むからこそ見えてくるうちなる想いやテーマに対する構造理解の不十分さと、次に自分たちが学ぶべき領域の設定を繰り返していく。

最終的にどんなシリアスゲームが生まれるのか、まだまだ分かりません。現時点での方向性はもしかしたら完成の直前にどんでん返しが起こりアップデートされるかもしれない。そのプロセスそのものから学び取り自身の糧となっていくモノが、きっとたくさんあるはずです。

このプロジェクトは今年度いっぱい続きます。最終的にどうプロジェクトが着地したか、あるいはどんな変化が学生の中に生まれたか、また改めてこのnoteで振り返ってみたいと思います。


05.シリアスゲームの世界へようこそ


まとまりのない散らかり方でしたが、僕がこの分野に感じている可能性を少しでも受け取っていただけたならとても嬉しいことです。

これから先、「シリアスゲームづくり」をぜひ採り入れてほしい場所が二つあります。それが教育の現場と行政の現場です。

ここまで長々と語り散らかしていたとおり、そこにいるプレイヤーの認識を大きく変化させるモノがシリアスゲームづくりです。

複雑な問題を複雑なままに受け止め、それでも何かしらの意志を持って解決に向けた道筋を描き、それを実現させる体験を設計する。このようなチカラが教育の現場、行政の現場で生まれていくと社会は着実に変化するのではないでしょうか。

もちろん、ゲームそのものが生むテーマに対する解決の道筋はしっかり価値として存在します。人口減少、多様性、環境、地域や文化に個別の問題、これらに対する理解と行動変容を求めていくツールとしてシリアスゲームは相当の価値を持つ。でも、その価値にプラスして作り手側の変容に強烈なエネルギーを発してくれる。それがシリアスゲームの持つ価値や意味です。

これから先も、この分野が持つエネルギーを社会の中で実践し育てていきます。興味を持った方は何か一緒にプロジェクトを進めていきましょう。


お問い合わせいただくときはX(Twitter)または以下のフォームからご連絡ください。


いただいたサポートは探究したいテーマの書籍代等として使わせていただきます☺️