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【アルコール×社会問題 シリアスゲーム作成プロジェクト報告】ゲーム作りから得られる圧倒的な学び

「シリアスゲームを作るプロセスって、ものすごい学びの可能性があるはずなんです」

そんなことを方々で語って回っていたのが2023年の春ごろ。そこから様々な方のご縁がつながり一つのプロジェクトが生まれました。

それが今回のタイトルでもある「アルコール×社会問題 シリアスゲーム作成プロジェクト」です。

ちょうど僕がシリアスゲームの可能性を語りまくっていたタイミングを同じくして「アルコールに関連する問題を学習するゲームが作りたい。」と考えられていた大学の先生がいらっしゃいました。そんな僕たちを複数の方がうまく繋いでくれたのが一番最初のキッカケです。

そこからは、あれよあれよという間に話が進み、ちょうどいいタイミングで行政の事業の中で実践できそうだというところから二つの大学(京都文教大学・同志社大学)が主導するプロジェクトとなりました。

最初は「ゲームを作って学生にプレイしてもらう」ことを想定していましたが、それよりも「ゲームを作り上げるプロセスを通して深く学ぶ」ことに可能性を感じ、ゲームづくりそのものをプロジェクトとして稼働させることとなったのです。

二大学それぞれ秋学期15回のゼミの中でシリアスゲームを作成していきつつ、このテーマに対する理解を深めていくことが目的でした。最終的に両校一緒に合同発表会というかたちでゲストを招いてゲームをプレイしてもらうところまでがプロジェクトのゴールです。

さて、「アルコール×社会問題」と聞いてどんな問題をイメージするでしょうか。

このように一言で表現してもアルコールに関わる疾病などの健康問題、アルハラ、飲酒運転、依存症などが挙げられます。直接的ではないかもしれませんが、その影響によって生まれている問題という意味では暴力・犯罪行為、ネグレクトやヤングケアラー、世代間連鎖など複雑な問題へと繋がっていきます。

これら、「様々な問題が複雑に関わり合っている現状」を捉え、どう自分たちがこの社会問題に向き合っていくかを、学びの中で見つめる機会となったのがこのプロジェクトです。シリアスゲームを作成するものの、それはあくまでも目的に至るための手段です。しかしこの手段がとても大きなエネルギーを持つことをプロジェクト通してひしひしと感じていました。

ゲームづくりは「①構造を理解する」「②メッセージを設定する」「③体験に落とし込む」と、この3つの項目を何度も行き来しながら進めていきます。詳しくは以前のnoteに書いてますのでぜひコチラも読んでみてください。

「①構造を理解する」ではアルコール依存症当事者・家族との対話、フィールドワーク、座学での学習、問題を構造化して理解するためのワークショップなど、単にリサーチするだけに留まらず、問題の「構造」と「当事者の個別体験」を理解できるようなアプローチを経ています。

そこから果たして最終的に何をテーマと位置付けるのか、そもそもなぜそのテーマを他でもない自分たちが敢えて扱うのか、自分たちの価値観にまで潜り込みながらテーマに対する課題意識と向き合いつつ、制作を半期の中で進めていきました。

何を伝えたいのか、誰にどうあってほしいのか、逆にどうあってほしくないのか、自分たちの「意志」へと繋がりそうな問いを様々な角度から立て、うなりながら考え仮説を出しチームで議論を深めていくのですが、そう容易にゴールへは辿りつきません。

課題の構造化ワーク

最初に作ったゲームのプロトタイプは、何が伝えたいのかもよく分からないようなゲームでした。しかし、プロトタイプという現実の形状になるからこそ「あれ?、何を伝えたかったんだっけ?」、「自分たちが大切にしたいことって何?」「テーマの何が分かっていて、何が分かっていないの?」と考えるキッカケとなっていきます。

何度目かのプロトタイプ作成にかかったときに「自分たちが伝えたかったのはコレだったんだ」というメッセージに行き着きます。おそらく、どんなリサーチをしたりどんなワークショップをしたとしても、最初からこの結論に行き着くことはなかっただろうと思います。

このように「①構造を理解する」「②メッセージを設定する」「③体験に落とし込む」の3つがしっかりと噛み合うまではもどかしい進行となりますが、丁寧に行ったり来たりを繰り返していきます。体験を通してからでなければ抽象的概念は磨かれず、また抽象的概念の整合性も体験を通してでなければ筋が通っているかを確認できない。

だから、もどかしくとも何度も往復することになるのです。幸いにしてシリアスゲームのプロトタイプは短時間に作ることができる。だからこそ何度も「作っては壊す」ができるのですが、一方でそれは非常に根気を要する作業にもなります。しかし、その先に至った「自分たちに出せる目一杯の結論」は自信を持って外に出せるものとなります。

この3つが噛み合った瞬間、ある種のブレイクスルーが起こります。構造理解とメッセージと体験とが一本の線でつながり、まるで推理小説の伏線回収をするかのようにアウトプットが生まれてくる。それがいつ生まれるかは分からないからこそ何度もこの3つを往復するのです。

何度もプロトタイプを作っては壊して

あるチームは何度も構造やメッセージに向き合い「私たちが本当に伝えたいことはこれなのだという揺るぎない確信がついた。」と発表できる状態にまで辿り着きました。ここに至ることができたこと自体が、「作っては壊す」に向き合い続けたからだと思います。

最終的に出来上がったゲームも様々でした。学生にとって身近な「飲み会」を扱いながら、そのなかで「アルハラ」の被害者にも加害者にもなり得る構造を再現したゲームや、「アルコールに関連する問題により亡くなってしまった主人公」をいかにして助けるかをタイムスリップしながら考えるゲームなど生まれました。

合同発表会の様子

扱っているテーマが「重い」と感じる方もいらっしゃるでしょう。

文字どおり「シリアス」な問題です。場合によってはこの問題は人の生死に関わる問題を抱えています。実際に、テーマを学ぶなかでそのような事例や体験を直接的に見聞きすることもあります。先に紹介したタイムスリップをするゲームはまさに多層的かつ受け止めることが「重い」と感じるような問題をゲームにしています。

ただ、「重い」とはいえこれは紛れもなく現実です。そして、自分から遠い問題というわけでもなく、誰もが当事者になりうる問題でもあります。「重たい」と感じているけれども、実は「当たり前」がそこにはあります。

だからこそテーマに向き合って社会で活動しているプレイヤーはそれを「知ってほしい」と声をあげます。一方で、受け手側にはリテラシーや自分自身がその問題を「受け止められる状態」であることも求められる。

ここが社会問題を伝えるうえで難しいポイントです。

その問題を知らない人・距離があると思っている人にとって社会問題を「自分ごと」にしていくプロセスの中には、はじめに問題を「受け止める」ことが必要になるのですが、そのために問題の全体像を「受け止めやすい形状」に加工・編集することが必要ともなってきます。

意外とよく見られるのが、問題そのものは真剣に受け止めているし解決してほしいと心から望んでいる、でも「自分ごと」にはなっていないという状態です。この状態を「真剣に受け止めている他人ごと」と表現します。

人間は共感できる生き物であるから、他人のことも真剣に受け止めることができる。だからこそ「自分ごと」と「他人ごと」の境界線が曖昧なまま、「自分ごと」になっていない状態もよく発生するのだと思います。

このような状況を突破する足掛かりとして、シリアスゲームが非常に意味を持ち得ると、このプロジェクトや発表会の場を通じて強く感じました。

ゲームという「擬似体験」であるからこそ、抵抗感なく自分にテーマを取り込むことができる。ゲームであるからこそ「没頭」することができ、「没頭」するからこそテーマの中に自然と自分を位置付けることができるようになる。

しかしプレイ中は自分のアイデンティティはある意味で横に置いたかたちになるが、かといって完全に自分と切り離された状態ではない。だからこそ自分の内側に着実に染み込んでいく。「テーマの受け止め方」に戸惑ってしまうような題材であればあるほど、シリアスゲームがもたらす価値は大きいのではないかと感じます。

現に、体験会の場には「まったくこのテーマに対する馴染みがない人」もいれば「まさに依存症の当事者として苦しんだ人」もいましたが、そんな人が「楽しみながら」ゲームをプレイしていたのです。

そう、楽しいのです。ここに大きな意味がある。シリアスゲームの作り手はプレイヤーが「没頭」できるような体験をデザインしていくわけですが、しかし何に没頭させるかによって伝わるメッセージは全く異なる、それもどんなテーマ理解を下敷きにしているかでさらに異なってくる。

このすべてを行き来しながら没頭する体験を設計できたとき、社会問題を自分に取り込む最初のステップである「受け止める」が自然なものとなり、自分の中に本当の意味で取り込むことができる。そんな意味を感じました。

このプロジェクトに触れる中で、ゲームづくりから単なる「学び」と表現できないような、大きな波及効果を感じました。学びながら、現実の社会にアクセスしている。学びながら、自分の価値観とアクセスしている。社会という言葉を自分も含んだ人々の総体という捉え方をするのであれば、シリアスゲームは社会と学びをシームレスにつなぐものであると表現できるのかもしれません。

現に、今回のゲームづくりを通して自分自身もこの問題を広く学び、その構造の複雑さを掴むに至りました。ただ学ぶだけではなくゲームというカタチに落とし込もうとする中で、構造と文脈と意志と体験の狭間で自身のあり方すら見つめることとなる。しかも、そのプロセスは常に現実の問題の世界と接点を持ちながら進めていく。

このプロジェクトを通してゲームづくりに伴走する「コーディネーター」としてのスタンスも考えさせられる場面が多々ありました。

専門家や当事者は「その人だからこそ言葉にできることがある」と「深く知っているから見えないものがある」の両面がある。しかし、コーディネーターが完全な外部素人のスタンスではそもそも何がよく見えていて何が見えないのかも分からない。

だからこそプロジェクトを通して自らが主体的にテーマに対して学びを深めていきながら、意志と体験の両面にもアクセスし続けるバランス感覚のようなモノの大切さを感じました。

ゲームクリエイターがシリアスゲームの分野をコーディネートするときにも、この観点が大切であるように感じます。

クリエイターの観点からはどうしても体験の設計に重きを置きがちになりますが、大切なことは「①構造を理解する」「②メッセージを設定する」「③体験に落とし込む」の3つをコーディネーター自身が一歩メタな立ち位置から常に往復し続けることだと感じます。

このプロセスに伴走できるコーディネーターが社会の中にたくさん生まれていくこと自体にとても大きな意味を感じます。

シリアスゲームの作成プロセスに伴走するコーディネーターは、おそらくその領域をシリアスゲームの世界だけに留めておくことができません。活動の中で自然と波及効果的に広がる関係性とリアルな社会の変容に寄り添うことになるため、どんどんその領域が拡張していくはずです。

そんなコーディネーターが社会に増えることそのものが、この世界を一歩前進させるエネルギーになっていく。手前味噌ですが、自分自身がそうあらねばならないとも感じましたし、また今回のプロジェクトを通して実際に波及する展開が自分自身にも起こっています。

シリアスゲームは現実を動かしていく。そんなチカラと可能性を感じたプロジェクトでした。学びというテーマで語るからこそ、その学びは学びの世界で完結せずに現実へと染み出していく。これを加速させていくのがシリアスゲームです。

実際に社会問題の現場にいる方、様々なテーマを学ぶプロセスにゲームをもっと活用していきたい方、行政やデベロッパーなど人と社会と暮らしの交わるところでゲームに対して可能性を感じている方、いろんな方とシリアスゲームを作ってみたいです。

そんな活動をもっともっとこの社会の中に増やしていけば、社会問題は解決に近づいていくはずです。ぜひ一緒に取り組んでみませんか。


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