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論文紹介 国家を見限ったとき、国民はどのような行動を選択できるのか?

自分が属する組織に未来がないことに気が付いたとき、そのメンバーが選択できる行動は2種類に大別することが可能です。一つ目は組織から逃げ出すこと、もう一つは組織に留まり、内部から声を上げて、変革を促すことです。政治学の研究領域で、この状況をモデル化し、分析した先駆者としてドイツの研究者アルバート・ハーシュマンが知られており、彼の『離脱・発言・忠誠:企業・組織・国家における衰退への反応(Exit, Voice, and Loyalty: Responses to Decline in Firms, Organizations, and States)』(1970)は古典的な価値がある業績です。

Hirschman, A. O. (1970). Exit, Voice, and Loyalty: Responses to Decline in Firms, Organizations, and States, Harvard University Press.(矢野修一訳『離脱・発言・忠誠:企業・組織・国家における衰退への反応』ミネルヴァ書房、2005年

ハーシュマンは、企業であれ、国家であれ、何らかの組織に所属するメンバーは、自らの利益を追求していると想定しました。もし所属している組織から受け取れる利益が縮小し、あるいは待遇が悪化するようならば、メンバーは組織に対する忠誠の強さに応じて組織から抜け出すか(離脱:exit)、あるいは組織に残留して声を上げるか(発言:voice)を選択します。

このモデルによれば、企業からの退職、地方自治体から別の地方自治体への転居、国外への移住は離脱に相当します。また、賃上げや待遇の改善などを求める労使交渉、非暴力的な抗議運動への参加、あるいは暴力的な武装闘争への参加は広い意味で発言の一種として見なすことができます。ハーシュマンは離脱を選択するメンバーが増えれば、発言を選択するメンバーは減り、反対に離脱を選択するメンバーが減れば、発言を選択するメンバーが増えると考えていました。

さほど費用をかけずとも離脱が可能ならば、メンバーはあえて発言を選択することはなくなります。発言を選択する場合、組織形成で時間、労力の負担が大きく、特に個人ではなく、集団を組織して発言しなければ所望の結果が得られない場合、その困難は一層大きなものとなるためです。

ところが、1989年に東ヨーロッパ諸国で相次いで発生した政変を受けて、ハーシュマンは離脱する人々と発言する人々が同時に増加する可能性に注目するようになりました。1993年に発表した「離脱、発言、東ドイツ(Exit, voice, and the fate of the German Democratic Republic)」は、その考察の成果をまとめた論文です。

Hirschman, A. O. (1993). Exit, voice, and the fate of the German Democratic Republic: An essay in conceptual history. World politics, 45(2), 173-202. https://doi.org/10.2307/2950657

1949年から1988年まで東ドイツで反体制派が組織されることはめったにないことでした。1953年6月16日から17日にかけてベルリンでは労働者が抗議の声を上げたことがありましたが、これは例外に属する事象でした。ハーシュマンは、このことを可能にしていたのは、東ドイツから西ドイツへの移住が制度的に可能であったためではないかと考えています。東ドイツ政府は共産主義体制を維持しつつも、高技能、高学歴な労働者が西ドイツに流出することを防ぐため、1961年以降に移動の自由を制限し、ベルリンの壁を建設し始めました。この措置で東ドイツからの離脱は困難になりましたが、それでも人の流れが完全に途絶えることはなかったのです。

1949年に東ドイツを去った難民は129,245人でしたが、その数は1950年に197,788人に増加し、最も多い1953年には331,396人になっていました。ベルリンの壁が建設された1961年の難民は207,026人でしたが、翌1962年には16,741人に減少しています。以降は1988年まで難民の数が1万人を超えることはなくなっています。

ベルリンの壁が建設されてから、東ドイツ政府は国外への移住を厳格に管理するようになりました。1963年には29,665人に許可を与えていますが、5年後の1968年には11,134人にしか許可を与えておらず、それ以降は1984年まで12万人から8000人の間で推移しました。対策を講じているにもかかわらず、これだけ継続的に離脱する人が発生し続けたことは興味深い事象です。

ハーシュマンは、1989年の前年にあたる1988年に東ドイツから離脱しようとする人々は大幅に増加したことも指摘しています。過去3年の実績を平均すると2万2000人程度であったにもかかわらず、1988年には3万9000人ほど出国していました。出国は1989年の春になると一層増加し、ハンガリー、チェコ、ポーランドの西ドイツ大使館には移住の機会を求めて何百人もの東ドイツ国民が殺到しました。

東ドイツが1989年10月6日から7日にかけて建国から40周年を記念する式典を開催しているときも、この人の流れは絶えることなく続いたので、東ドイツは国民を強制的に追放するという体裁をとり、列車を用意して出国させました。興味深いのは、1989年に東ドイツでこの列車のことが報じられると、これに乗り込もうとする人々が続出したことです。駅舎に人が溢れかえり、それが自然発生的な抵抗運動となりました。駅員はドレスデンの駅舎に集合した住民を解散させようとしましたが、人々は立ち去ろうとせず、結果として抗議の声を上げることになりました。

この抗議運動は建国記念式典の期間に発生したので、警察はこれを暴力的に取り締まることができませんでした。結果的に、その場で指導的な役割を担ったドレスデンの二十人組と呼ばれる集団が現れ、自然発生的だった抗議運動は組織化された政治団体へと変化し、ドレスデン市長との会談を実現させています。これは当時の東ドイツの政治状況では予想できない事態でした。ドイツ社会主義統一党の書記長であり、東ドイツの最高指導者だったエーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)は意に介しませんでした。政治状況に危機感を募らせた党中央委員会はホーネッカーを解任していますが、11月4日には東ベルリンで50万人を動員する大規模なデモが行われるなど、深刻な状況を抑えることは困難でした。このデモでは民主的な選挙と移動の自由の二つが要求されました。

以上の事例を踏まえ、ハーシュマンは共産主義体制のような極めて強力な抑圧が可能な政治体制の下では、離脱を行う国民と発言を行う国民が同時に増加すると主張しています。つまり、二つの戦略は常に異質なものであるとは限りません。ドレスデンの事例で見られたように、離脱を求める大勢の国民の行動が、政治的な発言の拡大に繋がることもあります。東ドイツで体制が崩壊に至った要因は一つではありませんが、国外への移住を離脱という政治行動と捉えることで、政治的な駆け引きの道具として分析できるようになります。

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