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ナポレオンの政治的能力を解き明かす『ナポレオン帝国』の書評

フランス皇帝ナポレオン一世(1769年 - 1821年)は、ナポレオン戦争で活躍した戦略家として有名ですが、政治家としての手腕も存分に発揮しました。政治の文脈において、ナポレオンは国家体制の近代化を推し進めた改革者であると言えるでしょう。

オックスフォード大学ハートフォード・カレッジの歴史学者ジェフリー・エリスの『ナポレオン帝国(The Napoleonic Empire)』(1991; 2003)は、当時としては最新の研究成果を取り入れ、ナポレオンの政治的能力がどのようなものだったのかを読者に示す概説書です。翻訳されているため、日本語で読むこともできます。

Geoffrey Ellis. 2003(1991). The Napoleonic Empire, 2nd edition. Studies in Eruopean History. Palgrave Macmillan.(邦訳、ジェフリー・エリス『ナポレオン帝国』杉本淑彦、中山俊訳、岩波書店、2008年

ナポレオン体制の独裁的な特徴

19世紀の初頭にナポレオンはフランス軍を率いてヨーロッパ大陸の大部分を征服し、その覇権を確立しています。しかし、これは彼の軍事的能力だけでは到底実現しえない一大事業でした。

皇帝という自分の地位を守りながら、ヨーロッパ史においてかつてない規模の軍隊を動かし、広大な占領地から資源を獲得するためには、効率的な支配体制を構築する政治的能力が不可欠でした。著者エリスはナポレオンの政治的能力を解き明かすために、著作で次のような問いに答えようとしています。

「ナポレオンによる征服と国家形成の原動力は何であったのか、彼の統治機関の特徴はどこにあったのか、彼の王朝構想はどのように膨らんでいったのか、フランスにおける社会的地位の引き上げ政策とイタリア・ドイツ・ポーランドにおける土地贈与とのあいだにはどのような連関があったのか、彼の大陸封鎖政策あるいは「大陸体制」が、広義の帝国の全体にどのように拡張されたのか。本書ではこういった事柄を核心的問題として取り上げたいと思う」(邦訳『ナポレオン帝国』13頁)

著作の構成は以下のようになっています。

1 序論:歴史書のなかのナポレオン
2 受け継いだ遺産
3 文官組織:ナポレオン国家の非軍事基盤
4 「大帝国」と「大陸軍」
5 帝国エリートの編成と贈与
6 帝国の経済
7 遺産

ナポレオンの支配を理解する上で特に興味深いのは、第4章と第5章です。ここではナポレオンの政権を支えたエリートの取り扱い方が説明されているのですが、ナポレオンが部下の忠誠を維持するために、軍隊によって獲得した占領地を贈与していたことが分かります。これはナポレオンがその治世を通じて戦争に明け暮れた理由を考える上で重要な意味を持っています。

「1802年から1806年までの期間、ナポレオンは贈与を非常に厳選しておこなっていた。ところが1809年以降、土地贈与だけでなく爵位授与も急増する。このような違いが生じたのは、イタリア・ドイツ・ポーランドを軍事的にも政治的にも屈服させたからである。ようするに、これらの地で元封建領主が有していた土地と各種収入の大部分がナポレオンに引き渡され、その自由裁量に委ねられたのである」(同上、145頁)

著者の調査によれば、ナポレオンは1802年から1804年にかけて自分の権力を維持するために処分できる資産をフランス国内で探すことに難しさを感じるようになっており、そのことが戦争を始める大きな動機になっていました(同上、142頁)。

この解釈に従うならば、ナポレオン戦争は皇帝ナポレオンの政治的思惑、それも個人的な野心によって始められたと考えることができます。現代の政治学者の視点から見れば、ナポレオン戦争は独裁的な政治体制の下で指導される戦争の典型であると言えるでしょう。民主的な支持基盤を必要としない政治家は、大衆に不利益を押し付けてでも、エリートに利益を分け与え、自らの権力に従わせようとする傾向があります。

エリートには特権を、大衆には兵役を

著者はナポレオンが自らの権力の基礎を安定させるためにさまざまな事業に取り組んだことを説明しています。ナポレオンはフランス革命において打破された貴族的特権さえも自分の政治的な思惑から復活させました。

1802年から1803年にかけてナポレオンは自らに忠誠を誓い、主従関係を受け入れた有力者に対して知行地を与えただけでなく、栄典としてレジオン・ドヌール勲章を制定し、自分の権威を高める目的で利用しました(同上、142頁)。

さらに、帝国貴族という制度も創設しました。これはナポレオンが自分のために働く軍人に対して特権を付与するために用いられた政治制度です。1808年から1815年までに功労者に対してナポレオンは爵位を授与し、これまでの調査でその総数はおよそ3600名程度と見積もられていますが、そのうち軍人は59%と過半数を占めていることが判明しています(同上、146頁)。ナポレオンが自分の権力を支える人材として軍人をどれほど重視していたのかが分かります。

しかし、ナポレオンはエリートと大衆を明確に区別し、大衆には兵役を押し付け、反発する者は容赦なく弾圧しました。これまでの調査でフランス軍の大部分の兵力は貧困層に支えられていたことが分かっており、彼らの多くは小作農の出身だったとされています(同上、107頁)。

フランスでは1798年のジョルダン=デルブレル法によって近代的徴兵制が導入されたことにより、戦時においては成年男性全員に無期限の兵役義務が課せられることが決定していました。平時においても4年の任期で志願兵が集められ、それで充足できなかった欠員については徴兵で対応していたのです(同上、107-8頁)。

徴兵に関してナポレオンは国民を平等に扱ったわけではありません。1812年から1813年にかけて、ナポレオンは兵役免除を認める代わりに、国に一定額を支払った上で、代理人を立てることを条件として求めました(同上、108-9頁)。このような兵役制度のために、富裕層の子弟は実質的に兵役を免除され、貧困層に負担が集中していたと言えます。

さらにナポレオンは征服を進める中で、徴兵をフランスの国外に広げて実施しました。時期によって変動がありますが、フランス軍全体の兵力の3分の1から5分の2がフランス人だったという見積もりが示されています(同上、112頁)。つまり、ナポレオンの軍隊の半数以上が外国人で占められていたことになります。ナポレオン戦争の末期では苦戦が続いて兵士の損耗が続出していたため、ドイツ、イタリア、オランダ、ポーランドから多数の若者が徴兵されました(同上、112頁)。

このような状況であれば、ナポレオンの軍隊の内部で多数の軍事犯罪が発生していたことは驚くべきことではありません。徴兵忌避と脱走は当時のフランス軍にとって深刻な問題でした(同上、114頁)。1804年から1806年だけでも脱走は毎年9600件発生していたという推定があり、歴史家の調査で農繁期になると脱走兵が増加する傾向にあったことが分かっています(同上、115頁)。この問題を解決するため、ナポレオンは憲兵の機能を拡充しており、これが後のフランスでも治安維持の要として発展しました。

まとめ

ナポレオンの政治的能力は、独裁的な支配体制を確立し、それを維持するという点において非常に優れていたと言わなければなりません。ただし、その支配を維持する前提として、対外的な戦争によって新たな領土を獲得する軍事的能力が必須だったことは見過ごすべきではありません。

対外戦争で新たな領土を手に入れる力があったからこそ、ナポレオンは自分に報いた軍人にしかるべき報酬を配分し、大規模な軍隊を戦地で戦わせることができました。民衆の反乱を力でねじ伏せることができたのも、強大な軍事力があったからできたことでした。この著作を研究すると、戦争に敗れ、領土を失えば、ナポレオンの支配体制が行き詰まることは必然だったことが分かります。

ナポレオンに関する研究は今でも非常に活発であり、その成果を総括することは簡単ではありません。しかし、著者はそのような作業をうまくこなしており、非常にコンパクトに要約しました。『ナポレオン帝国』は研究者にとって非常に便利な概説書ですが、一般の読者であってもナポレオンに関心があるなら十分に楽しめる内容になっています。


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