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論文紹介 ロシアはエネルギー貿易で政策の変更を強要する

1990年、研究者のルトワックは『ナショナル・インタレスト』で冷戦後の国際政治では軍事的手段ではなく、経済的手段の運用が重要な意味を持つようになるという議論を展開しました。彼はこれからの国家の能力は、武力ではなく資本によって比較されるようになり、国外に軍事基地を置くよりも、外国の市場に自国の財やサービスを浸透させることの方が戦略的に重要な意味を持つと主張したのです(Luttwak 1990: 18)。

ルトワックはこの視点で冷戦後の地政学の新しい方向性を打ち出そうとしており、軍事戦略を重視する古典的な地政学(geopolitics)から国家単位の貿易戦略を重視する地経学(geoeconomics)に転換すべきだと大胆に述べました。

経済力の戦略的な運用に着目する必要性は今では広く知られるようになっていますが、ルトワックが論文を発表したのは、グローバル化がよいものであると考えられていた時期だったため、研究者の受け止めは好意的なものばかりではありませんでした。しかし、2014年にロシアがウクライナに対して武力攻撃を加えてから、ロシアがエネルギー貿易を通じて欧州連合を内部から分裂させていることが認識されるようになりました。

ウィーゲルとヴィーマは「地政学対地経学:ロシアの地政戦略と欧州連合に与える効果について(Geopolitics versus geoeconomics: the case of Russia's geostrategy and its effects on the EU)」(2016)と題する論文を『インターナショナル・アフェアーズ』で発表し、その中でロシアのエネルギー貿易が経済的な利益を上げるためではなく、政治的な目的を達成するための手段として戦略的に操作されていると論じました。経済連携を強化することは、表面的には双方にとって経済的利益をもたらす可能性が高いため、脅威認識を強化することはありません。しかし、他国の経済を自国に依存させる貿易構造を作り出すことができれば、譲歩を引き出すことが戦略的に可能となります。

著者らはロシア政府自身が2003年からエネルギー資源をロシアの政策手段として明確に位置づけてきたことを指摘した上で、天然ガスの価格設定の違いに注目しています。欧州連合の新たな規制によって2013年にロシア産の天然ガスの価格が国別にどのように異なっているのかを比較すると、例えばオーストリアは1000立方メートル当たり397ドルを支払っていますが、チェコは503ドルを支払っていました。この価格の違いは輸送の費用で説明することができないほど大きく、著者らは政治的な関係性に応じて変えていると説明しています。実際、2008年にアメリカが配備を推進するミサイル防衛にチェコが支持を表明したとき、ロシアはチェコに対するエネルギーの供給を停止しました。

欧州連合は経済政策として、域内の市場競争を妨げる支配的な企業の影響力の制限に取り組んできましたが、この政策はエネルギー貿易の分野では徹底されていません。ロシア政府が株式の50%以上を保有する半国営のガスプロムは欧州連合の多くの加盟国に天然ガスを供給しています。ガスプロムはロシア経済で最大の納税主体であり、その売上はロシアにとって重要な財源です。

欧州連合の一部からは、ガスプロムの独占的地位が問題視されており、ロシア依存から脱却するべきという声も上がっていましたが、ドイツがこの動きを封じてきました。ドイツはロシア産の天然ガスの供給に依存しており、バルト海の海底にガスのパイプラインを敷設するノルドストリームの事業でロシアと経済協力関係を強化しているため、そのことが、欧州連合として一致した対ロシア政策を形成することを難しくしていました。

著者らが転換点として注目しているのは2014年です。この年にロシア軍がクリミア半島を軍事占領し、これを「併合」したこと、さらにウクライナの東部にあたるドンバスを実効支配する武装勢力に軍事援助を開始し、必要に応じて戦闘に参加する動きを見せました。それまでにもロシアはチェチェン、ジョージアなどで軍事行動をとってきましたが、ウクライナに対する武力攻撃は既存の国際秩序に対する挑戦として受け止められ、ロシアを脅威として認識する見方が欧州連合の加盟国の間で強まりました。

欧州委員会はロシアがウクライナに武力攻撃を加えたことを踏まえ、ウクライナを迂回し、ブルガリア、セルビア、ギリシャなどに天然ガスを輸送するパイプラインを敷設するサウス・ストリーム事業を頓挫させる法的措置をとりました。

さらに欧州連合の加盟国は、当初は躊躇していたものの、ロシアに対する経済制裁に踏み切ることで合意し、ロシアの資本市場に対する長期融資の禁止、防衛分野における取引停止、技術移転の阻止、エネルギー貿易の分野における技術移転の阻止などを含めた大規模な制裁を課すことを決めています。年間で750億ユーロにも上る貿易実績があるドイツが、2014年のウクライナ侵攻を機に強硬路線を採用したことは、ロシアのそれまでの経済力の運用を通じたエネルギー戦略の限界を示していると著者らは考えています。

結論において、著者らはロシアの首脳部がウクライナに対する軍事力の行使と、欧州連合に対する経済力の行使は戦略的に両立が可能だと考えていた可能性が高いものの、実際にはウクライナに対する武力攻撃の結果として、ロシアは欧州連合から経済制裁を課され、自国の立場を著しく不利なものにしたと評価しています。これは単なるロシアの戦略的な失敗を意味しているだけでなく、軍事戦略と貿易戦略を同時に実行するときの困難を示しているかもしれません。

ロシアの貿易戦略の効果については、日本の立場でも詳細に調査する必要があると思います。2016年、安倍首相の下で日本政府は「8項目の協力プラン」をロシアに提案し、エネルギー事業や先端技術開発事業などでの協力を進めてきました。2014年のウクライナ侵攻の後で、この提案は行われており、欧州連合との取引が制限されたことで打撃を受けたロシアが回復することを間接的に助けたことになります。Wrenn Yennie-Lindgren(2018)の研究によれば、日本は2011年の福島原子力発電所の事故に伴って、エネルギー政策の抜本的な見直しを迫られており、2014年のウクライナ侵攻でロシアに対する経済制裁が発動された際にも、ロシアとの対話を維持しようとしました。

2022年のロシア軍によるウクライナ侵攻が始まってからも、この協力事業は一部で継続されています。今後、ロシアの貿易戦略が日本政府の制裁措置を妨げる上で一定の効果を発揮し続けている要因を究明する必要があるでしょう。

参考文献

Luttwak, E. N. (1990). From Geopolitics to Geo-economics: Logic of Conflict, Grammar of Commerce, National Interest, No. 20, pp. 17–23.
Yennie-Lindgren, W. (2018). New dynamics in Japan–Russia energy relations 2011–2017. Journal of Eurasian studies, 9(2), 152-162.
Wigell, M., & Vihma, A. (2016). Geopolitics versus geoeconomics: the case of Russia's geostrategy and its effects on the EU. International Affairs, 92(3), 605-627.

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