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古代から現代までの政治史を壮大なスケールで考察した未完の大著『太古以来の統治機構の歴史』を紹介する

元オックスフォード大学教授の政治学者サミュエル・ファイナー(Samuel Finer)の著作『太古以来の統治機構の歴史(The History of Government from the Earliest Times)』(1999)はメソポタミアに勃興したシュメール人の都市国家から、19世紀末のヨーロッパに成立した近代的国民国家に至るまでの統治機構の変遷を長期的な観点から記述、考察した1600頁を超える全3巻の大著です。

不幸にも著者が1993年に死去しており、当初計画した20世紀以降の国家形態の特徴に関する議論は盛り込まれていません。しかし、ファイナーの研究は政治学の分野で大きな反響を呼びました。20世紀末の政治学において注目に値する大きな研究業績ですが、残念ながら2021年の時点で日本語に翻訳されていません。

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ファイナーの著作の特徴は、世界史の視点から統治機構の変遷を記述したことです。時代背景、地域特性などが異なる統治機構の形態を統一的、包括的に把握し、記述し、考察することは極めて難しいことですが、ファイナーはあえてこの課題に取り組みました。イギリスの著名な政治学者バーナード・クリックの書評でも「政治学における大きな空白を埋める」と賞賛されています。

まず、ファイナーはあらゆる統治機構に共通して見られる機能と構造を特定することによって、古代から近代へと連なる統治機構の変化を理解しようとしました。そして、時代や地域を超えて統治機構に共通する機能を(1)防衛、(2)治安、(3)税務、(4)公務・福祉、(5)権利・公民権と特定することによって、政治学の統治機構の特徴を整理しようとしました。政治家が統治機構を動かす上で、これらの機能は欠かすことができないものばかりです。

さらにファイナーは統治機構の構造を理解するために、体制(regime)の類型を設定することを試みています。一つ目の類型は宮廷(Palace)です。宮廷は君主が居住する場所を意味しますが、ファイナーは政治的に独立した個人があらゆる統治機構の機能について決定を下すことが可能な統治機構の類型として宮廷を定義します。古代エジプト、ペルシア帝国、ローマ帝国、ビザンツ帝国、中国の歴代王朝、イスラーム帝国、18世紀にルイ十四世が治めたフランス王国などのように、宮廷では皇帝あるいは国王が自らの決断で統治機構を操作することができます。

二つ目の類型は集会(Forum)です。ファイナーは意思決定のために討議と投票という手続きを採用している体制を指して、この用語を使います。その名の通り、集会は民主的な構造を備えた政治体制であり、統治機構の構成として人民が主体となります。ただし、古代アテナイの例からも分かるように、集会で投票に参加することは有産階級である市民の特権でした。つまり、その国に住む女性、奴隷、外国人を含むに政治参加を許していなかったのです。集会の政治構造として、権力は多くの人々に分散するように配置されてはいましたが、全国民に均等に分散しているわけではありません。これは近代以降にヨーロッパ各国で成立した議会制民主主義においても同じことが言えるでしょう。

三つ目の類型は貴族(Nobility)です。貴族政治は世襲された地位に基づいて形成される体制であり、同じような階層の人々が集まることで構成されています。18世紀までのポーランドにおいては形式的に君主制が採用されていましたが、権力を掌握するために貴族の支持が絶対に必要であったことから、実質的に国王の行動を貴族が制御する体制にあったと言えます(ポーランド・リトアニア共和国)。貴族は必ずしも一般的に見られる体制ではない、とファイナーは述べていますが、宮廷とは明確に区別する必要があるため、このような類型を設けています。

四つ目の類型は教会(Church)です。この用語を使うことは、ヨーロッパ史におけるカトリック教会の支配を思い起こさせるかもしれませんが、ファイナーは中世ヨーロッパにおける教会の権力は絶えず国王の権力と争ってきた歴史があることを指摘し、完全な体制として確立できていなかったと考えています。この類型によく適合する事例は、むしろアジアに見出されるとファイナーは述べており、例えば1642年にチベットを平定したガンデンポタンは宗教的権威を基礎とした政治体制の典型とされています。

ここで示した枠組みは、政治学の分野で一般的なものではなく、ファイナーが独自に考えたものです。これはファイナーが統治機構の機能や構造を統治下に置いた人々から富を抽出する制度と見なし、その抽出の効率性を一般的に評価することを狙っていたためです。あらゆる統治機構の機能と構造は、いかに多くの富を、いかに少ない費用と労力で抽出できるかによって評価することができます。

ファイナーの著作では、古代エジプト、アッシリア帝国、ペルシア帝国、古代ギリシア、ローマ、漢、唐、ビザンツ帝国、イスラーム帝国、中世ヨーロッパの封建制、オスマン帝国、徳川幕府、ムガール帝国、絶対主義のフランス、立憲主義を採用したイングランド、アメリカ合衆国と多岐にわたっていますが、そこで見出されるのは試行錯誤の末に統治機構が人々から富を抽出する能力を向上させていく過程です

富の抽出は税務の機能だけで実現できるわけではありません。外敵の侵入を防ぐ防衛の機能や、国内の治安を維持する機能が同時に作用しなければなりません。国内で実施する公共事業、国内の住民に付与する権利も国内の富を増大させる上で重要な意味があります。

統治機構を制御するための権力は、人々から集めた富を管理する権限と常に密接な関係にありました。このために、ファイナーは著作の中で国庫に納められた歳入に関する推計値や、国庫から利益を引き出す権限を持っていた人数を調べています。国庫にアクセスできる人物の数は、その体制の権力構造によって、あるいは権力者を選定する手続きや、その過程で起こる紛争のメカニズムによって異なります。一般に古代の統治機構は現代のそれと比べて国庫を管理する制度が不完全であり、私的な流用を十分に防止することができなかったとファイナーは指摘しています。近代的な統治機構に見られる議会制民主主義や合理的官僚制は、このような問題を解決するための制度的な工夫であったと解釈されています。

ただ、ファイナーが提示した宮廷、集会、貴族、教会という類型で、その革新性がどこまで議論できるのかについては疑問が残るとも感じました。19世紀までのほとんどの統治機構の事例を調べれば、その大部分が宮廷に該当しており、集会、貴族、教会に該当する例はごくわずかです。そのため、4つの類型を使ったとしても、統治機構の歴史的変遷をおおざっぱにしか記述することができていません。また、個々の地域の歴史を専門にする研究者の書評を読むと、ファイナーの議論が二次的文献に依拠していることを問題視しており、史実の間違いも指摘されています。これらはファイナーの著作を読む上で留意すべき点でしょう。

それでも、ファイナーの研究には独特な利点があります。彼は百科事典的な歴史知識を頭の中で総動員し、古今東西の統治機構を独自の視点で分析し、定性的に比較し、洞察力に溢れた考察を展開する能力に長けていました。これほど広い視野で政治史を記述した研究業績は他にほとんど例がありません。

未完成には終わりましたが、『太古以来の統治機構の歴史』は現代の古典として読み継がれる一冊です。少なくとも、そのように呼ばれるに相応しい著作であると私は思います。

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