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とある義勇兵が最前線で見たフランス革命戦争・ナポレオン戦争の真相

フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン(1774~1844)は18歳でフランス軍に入隊し、フランス革命戦争とナポレオン戦争を通じて74回の戦闘に参加し、45年の年月を軍隊で過ごした生粋の軍人でした。

最終階級は大佐であったために、歴史の表舞台にその名が残ることはなかったのですが、イタリア、スペイン、エジプトを転戦する中で彼が書き残した日誌は、当時の兵士の目線から見た戦争を今に伝える貴重な史料になっています。子孫が数世代にわたって保存していたものを歴史学者が見出し、1981年にパリで出版されました。間もなく日本語に翻訳されています。

フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン著、瀧川好庸訳『ナポレオン戦線従軍記』中央公論社、1988年

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ヴィゴ=ルシヨンの初めての戦役は失敗に終わった

ヴィゴ=ルシヨンの日誌は1793年3月1日、モンペリエの実家を出発するところから始まっています。フランス革命戦争が勃発した翌年のことです。当時、フランスはオーストリア領イタリアで戦いを繰り広げていました。

ヴィゴ=ルシヨンはすでにフランス軍に勤めていた兄を通じて国境の町ニースに置かれたイタリア遠征軍司令部に赴き、義勇兵として入隊することが認められました。すぐに軍服、銃、弾薬等を受領し、ある歩兵大隊に配属されます。何ら新兵訓練も受けなかったので、武器の操作を戦地に向かう行軍の合間に教えてもらいました。実家を出発して2週間が過ぎた3月15日に初めての戦闘を経験することになります。

最初の戦闘は遠巻きに敵の方に向かって銃を射ち続けるだけで、呆気なく終わり、死の恐怖を間近に感じることもありませんでした。日誌では、むしろ糧食の不足による飢えの方が兵にとって深刻な問題だったことが書かれています。

しかし、イタリアで進軍を続けると、次第に敵であるオーストリア軍の抵抗が激しくなり、戦闘の様相は一変しました。2週間後の、3月30日に起きた2回目の戦闘では所属する大隊でも損害が出ており、隊列の中でヴィゴ=ルシヨンは隣に立っていた義勇兵が頭部に銃弾の直撃を受けて即死する様子を初めて目の当たりにしました。

その2ヶ月後の6月8日に起きた3回目の戦闘で敵軍の砲声を初めて耳にしました。その4日後の6月12日の4回目の戦闘では初めて脚を負傷しました。この戦闘でフランス軍は山地に築かれた敵の砦を3度も繰り返して攻撃したために、2000名の戦死者を出し、しかも、ヴィゴ=ルシヨンのような負傷兵も大勢発生しました。

その後、しばらく両軍のにらみ合いが続いたので、部隊は休息をとっています。3か月後の9月8日、敵はフランス軍を一掃しようと改めて攻撃を仕掛けましたが、これを何とか撃退することができました。しかし、一連の戦闘でイタリア遠征軍の戦闘力はほとんど失われており、戦役は失敗に終わりました。

退却の判断が遅れたこともあり、12月に深い雪で閉ざされたアルプスの山道を行軍しなければなりませんでした。ヴィゴ=ルシヨンは退却しようとした多数の兵士が道中で命を落とし、火砲も失われたことを記しています。初めての戦役で彼は九死に一生を得ましたが、これは彼の長い軍隊生活のほんの始まりに過ぎませんでした。

歩兵として見た当時の戦闘様相の詳細な記述

ヴィゴ=ルシヨンの日誌を読むと、兵卒であっても戦況をそれなりに把握できていたことが分かります。また、当時のフランス軍の下士官や兵卒が戦場で驚くほど自発的、積極的に任務を遂行しようとしていたことも記されています。

日誌の記述から例を挙げてみましょう。1795年9月1日、前回の戦役に引き続いて再びイタリアの平原へ進軍したヴィゴ=ルシヨンの歩兵大隊は、敵であるオーストリア軍のハンガリア擲弾兵と激しい戦闘を繰り広げました。その結果、多くの兵を失いながらも敵の陣地を奪い取ることに成功しています。このため、敵は後退して新たな陣地を占領し、その日の戦闘は終わりました。

しかし、フランス軍は戦闘が終わった後でも、その動きを止めません。激しい雨が降る夜、風が強い夜に風下から敵陣地に忍び寄り、夜襲を仕掛け、敵を消耗させたのです。

「この前哨戦は次の通り行われた。選抜歩兵諸中隊がこの任に当たり、もっぱら前哨戦だけ行った。激しい雨が降る夜か、風の強い漆黒の夜に挙行した。敵の哨兵は昼間に下調べがついている。われわれは迂回し風下から哨所に向かった。最初の歩哨の姿が見えると機転のきく敏捷な兵が一人抜け出し、よくあるように背後からこれを襲った。哨兵は一言も発することなく刺殺された。ついで全員で哨所を襲い、敵兵を虐殺し、奪取した。敵は、夜、哨所への兵員の増強し、燈火管制を伏いた。そこでわれわれも策を変え、弾薬を装備して2日ないし3日おきに、夜、分散して出かけていった。
 敵を発見するや撃ち殺し、身を隠した。哨所から発砲してきた。敵は武器を手に塹壕の背後で徹夜していた。この間、我が軍のほうはぐっすり眠っていたのである。何日かすると敵の警戒も緩んだ。この緩みを衝いてまた作戦に出た」(31頁)

このように、ヴィゴ=ルシヨンは前哨戦において歩兵中隊が独立して戦術行動をとり、しかも敵の外哨に対する夜襲が可能な能力があったことを証言しています。これは小部隊戦術の歴史を考える上で興味深い記述であると思います。著者はこのような夜襲を繰り返すことによって、兵士たちが優れた戦闘員としての経験を積むことができたとも述べています。

もちろん、戦闘の厳しさも克明に描き出されています。1796年の戦役で、著者はついに下士官に昇進を果たしました。しかし、1796年9月14日の戦闘では、著者は太腿に銃弾を受けたことで自力で歩行できなくなり、退却する味方に戦場に置き去りにされてしまいました。後で現れた敵軍のある上等兵はヴィゴ=ルシヨンを見つけると、彼の持ち物を全て奪い、裸にしてしまいました。この際に、負傷して倒れていた大隊長が敵兵によって殺害される様子を彼は目撃しています。

そのまま夜が訪れると、別のハンガリア軽騎兵が現れ、ヴィゴ=ルシヨンを見つけました。敵騎兵はもはや奪えるものがないと分かると、彼を通りすがりに剣で斬りつけて去っていきました。ヴィゴ=ルシヨンは気を失ってしまいますが、幸いにも朝の寒さで目を覚ましました。

その日の午前中にフランス軍が敵軍を撃退し、味方が戻ってきたので、著者は連隊に収容され、軍医の治療を受ける機会を得ました。その後、馬車で近くの野戦病院に移されましたが、寝台の上で全身に蛆虫が発生し、耐えがたい苦しみを味わったことを記録しています。

壮絶な戦場経験ですが、彼はその後もめげることなく、軍人として身を立てるために軍務に邁進し、少尉任官を果たして将校になりました。その後の記述を読むと、ナポレオンのような歴史上の英雄の足元で兵士がどのように戦っていたのかを詳しく知ることができます。軍事史に興味がある方はもちろんですが、当時の人々の生き様を知るためにも、ヴィゴ=ルシヨンの著作は読み返される価値があると思います。

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