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米国を襲ったスペイン風邪の歴史『史上最悪のインフルエンザ』の書評

現在、疫病の歴史に対する関心が急速に高まっており、過去に出された研究成果の意義を改めて見直す動きがあります。その中で改めて注目されている業績の一つが1918年のインフルエンザ(スペイン風邪)のパンデミックを取り上げたクロスビーの著作『米国の忘れられたパンデミック(America's forgotten Pandemic)』(1976年の初版の題名は『エピデミックと平和、1918(Epidemic and Peace, 1918)』)です。

Alfred W. Crosby, America's Forgotten Pandemic: The Influenza of 1918, 2nd edn. Cambridge University Press, 2003.(邦訳、アルフレッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』西村秀一訳、みすず書房、新装版、2009年

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この著作は1918年3月に感染が広がり始めたインフルエンザの影響を米国の視点から見ています。この研究が政治学の立場から見て非常に興味深いのは、当時の政治的・戦略的な情勢が感染対策の足かせになっていたことが描かれている点です。このことを理解するためには、米国が第一次世界大戦に参戦した当時の軍事情勢について知っておかなければなりません。

1917年に米国政府は第一次世界大戦に参戦することを決断し、ドイツ軍と戦うための準備を整えようとしました。しかし、当時の米軍の平時兵力は非常に小規模であり、参戦を決めてから短期間で大規模な動員を進める必要がありました。1918年3月にドイツは東部戦線で戦っていたロシアと和平を結び、同戦線の兵力の移動を開始していたので、西部戦線でドイツと戦うフランスとイギリスは米国の来援を心待ちにしていました。もし米軍が来援する前にドイツ軍が西部戦線で大攻勢を仕掛けてくれば、フランス軍とイギリス軍は厳しい戦いを強いられる状況でした。このように、当時の米軍には西部戦線への部隊の展開を急がなければならない戦略上の理由があったのです。

米国でインフルエンザの感染が始まった時期と米軍がヨーロッパへ兵を送り始めた時期は不幸にも一致していました。3月4日、カンザス州の駐屯地では新兵の訓練を実施するため、全米から次々と若者が集められていましたが、3月末までに233名の肺炎患者が発生し、48名の死者が出ました。3月中に米軍がヨーロッパへ移動を開始していた先遣隊の中でも肺炎患者が急増し、部隊を輸送する船舶の内部でも感染者が次々と命を落とし、一日に何十人も水葬しなければならない船が出てくるほどでした。著者はこのインフルエンザが3月に発生し、全世界に広がるまでに要した時間はわずか4か月だったことを指摘した上で、米国の一般市民が感染し始めるのは、その後だったと指摘しています。

8月12日にノルウェー船籍の「ベルゲンスフィヨルド」がインフルエンザ患者200名とともにニューヨーク港に寄港し、一部の乗客が市内の病院に入院しました。当時の連邦政府には検疫、隔離を市民に強制する権限がありませんでした。その結果として、1918年8月以降には十分な監視が実施されないまま、インフルエンザの第二波が米国社会に到来しました。政府が集計したデータによれば、9月に肺炎の死亡者は2800人でしたが、9月に1万2000人に急増し、病院は患者で溢れました。しかし、現場の公衆衛生の担当者には十分な情報、予算、資源がなく、多くの患者が適切な治療を受けることができませんでした。

さらに当時の米国政府が決定した政策がインフルエンザの感染をさらに推し進めてしまいました。8月には全米各地で政府の戦時公債を国民に購買するように呼び掛ける政府主催のイベントが各地で開催されていたのです。例えば9月28日にはフィラデルフィアで20万人を街頭に動員し、パレードが実施されていました。フィラデルフィアは10月に大規模な感染の拡大が発生し、第1週に700人、第2週に2600人、第3週に4500人が死亡しました。感染者が増加した結果、警察官、消防士、ごみ収集業者の欠勤率が増加し、公共サービスの供給に支障が出ました。

著者は、当時のフィラデルフィアで活動していたある訪問看護師が1日に50名以上の患者を訪問していたこと、また彼女がある部屋で男性の遺体を発見し、同居する妻も生まれたばかりの双子を抱えながら、衰弱して寝台から身動きがとれないほど衰弱している現場を目撃したことを記述しています。これほど悲惨な事態が起きていたにもかかわらず、戦時公債購買運動のパレードが各地で継続されていたことに現代の読者は驚くかもしれません。

感染症が猛威を振るう中で国民に戦時公債パレードに参加を呼び掛けることを決めたのは当時の政治家でした。死者が増加の一途を辿っていた10月4日に、議会は第四次戦時公債の発行を決定しており、国民から60億ドルを調達しようとしていました。これは戦争を継続するための戦費が底をつきかけていたためです。戦費の調達のために、集会、パレード、個別訪問によって国民に広く公債の購入を勧誘する必要があり、それは感染症の対策より優先されるというのが政治家の判断でした。これが数多くの感染経路を準備したことは言うまでもないことです。

当時、ウッドロー・ウィルソン大統領が感染症の対策を強化するか、戦争の遂行を優先するかを悩んでいたことを著者は紹介しています。第二波が到来して以降、米軍の内部でも感染者は急増しており、10月に2万4488名の兵士を輸送した船団では、航海中に4147名のインフルエンザ感染者が出ていました。重症者は1357名、洋上で死亡した将兵は200名以上にもなると報告されていました。これは軍事的観点から見ても決して軽視できる損耗ではありません。

大統領ウィルソンが陸軍参謀総長マーチとホワイトハウスで協議し、国内のインフルエンザの流行がコントロールできるまで、フランスへの兵の移動を一時中断できないかを話し合いました。その際にマーチはいかなる理由があろうとも兵の輸送を中断すべきではないとの立場をとり、インフルエンザによる人的な損耗と、戦争を早期に終結させることができた場合に避けられる人的な損耗とを比較して判断するべきだと主張しました。ウィルソンはしぶしぶではありましたが、この主張に同意し、西部戦線への部隊派遣は続行されることになりました。パンデミックが戦争の遂行を思いとどまらせるとは限らないことを示す重要な歴史的事例が示されていると思います。

初版が出たのは1976年ですが、1970年代は歴史学で社会史が新たな分野として発展を遂げていた時期でもあります。クロスビーの業績はこの分野の先駆として位置づけることができますが、その意義が理解されるまでには時間がかかりました。1918年のインフルエンザは米国で甚大な犠牲者を出した感染症でしたが、その記憶は1970年代までには薄れていたためです。

この業績の意義が認識されるようになるのは、1989年に「米国忘れられたパンデミック」と改題されて再版されてからのことであり、当時の世間の関心はエイズウイルスに向けられていたことが関係していると考えられます。2020年に改めてこの文献が各種ジャーナルで紹介されるようになっていますが、それは必然的なことだと言えるでしょう。


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