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論文紹介 中国とインドの対立は、いつ、どのように始まったのか?

中国とインドとの間には複雑な歴史的経緯を持つ領土問題があり、現在でも武力衝突が繰り返されています。しかし、米中対立が進む中で中国がインドと関係を改善しないことは、世界の情勢を踏まえれば不可解なことのように思えます。

もし中国がインドを敵に回してしまえば、中央アジアからヨーロッパに至る巨大な経済圏を構築する一帯一路構想の実現が阻害される危険があります。インドが戦略的観点からアメリカと手を結び、中国の封じ込め政策に協力する事態も想定できるでしょう。事実、近年のインドは対米関係を強化する方向へ動いています(論文紹介 日米豪印戦略対話(Quad)の戦略的な意義は何か?)。

歴史認識、文化背景が対外政策に及ぼす影響を説明するコンストラクティビズムの理論によれば、中国とインドの対立の原因には歴史認識、ステレオタイプ、イメージがあると推測されます。今回は、その説を裏付ける研究成果を紹介しようと思います。

Pardesi, M. S. (2019). The Initiation of the Sino-Indian rivalry. Asian Security, 15(3), 1–32. doi:10.1080/14799855.2018.1471060

この論文は、19世紀の中国とインドのエリートがどのような歴史認識を持っていたのか、それが両国関係にどのような影響を及ぼしてきたのかを説明したものです。著者の調査によれば、19世紀後半にインドでは自らをイギリスの帝国主義の被害者と考え、中国もまた同じ被害者であるという認識を持っていました。つまり、インドと中国はイギリスとの闘争で利害が一致すると認知する傾向にあったのです。

また、インド人の民族主義者はインドをアジアの大国であり、中国もまたインドの影響を強く受けた国家と認識していたことも報告されています。現代の歴史学の研究では否定されていますが、19世紀のインド人の民族主義者は東南アジアもインドの勢力圏の一部であったと考えるほど、インドの勢力を大きなものだったと思い描いていました。中国大陸がインドの勢力圏であるという考えはさすがに支持されていなかったものの、インド発祥の仏教が伝来した地域であることから、インドの文化的な影響を受けた地域として見なしていた、と著者は指摘しています。

中国人のエリートが抱いていたインドの認識は、インド側とはまったく異質なものでした。もともと、中国には唐代(618~907)以降に中央アジアから東アジア、さらに東南アジアに広がる独自の地域秩序が形成されていた、という歴史認識がありました。この歴史観では、中国の王朝の優越を認め、朝貢という従属関係を結んだ朝鮮、ベトナム、(一時期では日本)、そして武力による平定が必要だったモンゴル族、満州族、ウイグル族、チベット族の領域が中国の勢力圏に組み込まれます。

しかし、アヘン戦争(1840~1842)に敗れた結果、清がイギリスに香港を奪われたことで、中国中心の国際秩序は一時的に崩壊しました。その後、イギリスは上海にも勢力を広げ、中国に対する支配を強めましたが、この時期に植民地だったインドは、中国人の歴史認識で解釈すれば、むしろ侵略者の側にいた集団とされます。1925年5月30日、上海でイギリス人の命令によりインド人の警察官が中国人の抗議運動を武力で弾圧し、死傷者を出した事件は屈辱的な事件として記憶されていました(五・三〇事件)。毛沢東が率いる共産党が国民党との内戦で勝利を収め、1949年に中華人民共和国の建国を宣言したとき、毛沢東はインドを仲間ではなく、潜在的な脅威と見ていました。

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