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❖足元美術館XXXI(人為の傲慢、自然の我慢)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2024年3月15日)

【記事累積:1975本目、連続投稿:908日目】
<探究対象…美、花壇、ポイ捨て、自由意志、ピコ・デラ・ミランドラ>

本日ご紹介する足元に展示されていた美術作品のタイトルは、「人為の傲慢、自然の我慢」である。一体どんな作品なのだろうか。

年末に訪れたシンガポール。住んでいた頃から頻繁に利用していたショッピングモールのスタバのテラス席。その近くにあった花壇を見下ろすと、敷き詰められた軽石に何本かのタバコの吸い殻が捨てられていた。

この花壇が使用後か使用前かは分からないものの、最初に見たときは軽石しかないと思っていた。軽石しかないからいいというわけではないのだが、それを見て誰かが灰皿代わりにこの花壇に吸い殻を捨てたのだろうと思っていた。

以前からこの花壇の近くに集まってタバコを吸う人たちが結構いるのは知っていた。屋内での喫煙が禁止されているので、周辺のオフィスの人たちが休憩も兼ねて、昼くらいになるとたくさん集まってくる場所だった。

そこで気になるのはマナーの問題である。タバコの吸い殻を捨てるためのゴミ箱はそこからそれほど遠くはない場所にあった。しかしこの花壇の状況が物語っているように、そのわずかな距離の移動さえも面倒だと考えて、ポイ捨てをしてしまう人がいるのである。

人間は、「ホモ・サピエンス(知恵ある人)」のように理性を持つ存在という自負があるくせに、自由意志の名の下で行われているのは、めんどくさいという情念が上回った行動としてのポイ捨てなのかと思うと、人間は果たして知恵や理性を御せているのだろうかという疑問が生まれてしまう。

しかしよくよく花壇の中を見てみると、そこにあるのは軽石と吸い殻だけではないことに驚かされた。軽石の隙間に小さな植物の芽が出ていたのである。あまりにも小さいので、ここに集まっていた人も気づかなかったのだろう。もちろん先ほども言ったように、花とか草とかが生えていないなと思ったとしても、これは灰皿ではないのでここに吸い殻を捨てることは言語道断である。だがここに吸い殻があるということは、自分の足元にあるものが灰皿なのか花壇なのかという定義について理性を働かせることをやめて、情念に従った行動をとった誰かがいることの証明なのである。

「人間は自分の自由な意思によって何にでもなることができる。盲目な欲望に駆られ地上に転がるならば植物となり、感覚にとらわれ快楽にふけるならば動物ともなる。しかし、人間が自由意志を正しく使い、理性によって導かれるならば、天界にすむ霊的存在ともなり、身体を離れて純粋な観想のうちに生きるならば、やがては神そのものとなることもむつかしくはない。」
これはイタリアのルネサンス期に活躍した哲学者であるピコ・デラ・ミランドラが書いた『人間の尊厳について』の一節である。

これによれば、人間は自由意志に基づいてどんな存在なれるということが語られている。その意志の働かせしだいで、神のような存在として天界に近づくことも、人間よりも下等と見なしている存在として地べたに這いつくばることもあるとピコ・デラ・ミランドラは考えている。

私がシンガポールで見た花壇の吸い殻には、人間が神的な存在になることからは遠ざかり、理性よりも情念に染まっているという状況が表れていると思う。その点ではピコ・デラ・ミランドラの話はその通りだと思うのだが、同意できない部分もある。それは神的な存在に対比する形で、動物や植物を持ち出しているところである。彼は「盲目の欲望に駆られ」た存在が植物であると述べている。しかし、花壇の軽石と吸い殻の中で見た植物の芽からは、そのような印象は感じられなかったのである。

あの植物の姿は、私の眼には「どんな場所であろうが貪るように生きてきたい」というような「盲目の欲望に駆られ」た存在には映らず、「どんな場所でも文句を言わず必死に生きなければならない」というような「忍耐強さ」を持った存在に映っていたのである。

場所を変える自由を持っているのに、それを行使せず、その場に吸い殻を捨ててしまう人間の傲慢。
場所を変える自由を持っていないから、選択の余地がなく、その場で生きるしかない植物の我慢。
だから今日の作品のタイトルは、「人為の傲慢、自然の我慢」だったのである。

ちなみに「タバコ」はラオ語で「ຢາສູບ(ヤースープ)」という。タイ語では「ยาสูบ(ヤースープ)」または「บุหรี่(ブリー)」になる。

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