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❖足元美術館XXX(有は影、無は光)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2024年2月12日)

【記事累積:1943本目、連続投稿:876日目】
<探究対象…美、光と影、タートルアン、有と無、西田幾多郎>

本日ご紹介する足元に展示されていた美術作品のタイトルは、「有は影、無は光」である。一体どんな作品なのだろうか。

春節当日、どこかで打ち上げられる花火の音を聞きながら、夜の散歩に出かけた。この日はタートルアンまで行ってパトゥーサイに折り返すコースにしてみた。ラオスは毎年4月中旬にラオス正月ピーマイラオがあるので、そのときはタートルアンにたくさんの人がやってくる。さらに人が多く詰めかけるのはラオス陰暦の12月の満月にお祝いされる「タートルアン祭り」である。春節はそこまで盛り上がるイベントではないだろうなと予想していたが、それ以上に人がいなかった。

ラオスの国章にも描かれている金色の仏塔を囲む塀に沿った道を通るのは明かりと風だけで、人間の気配は全くない。だからこそこの日の作品と出会うことができたのだと思う。もしこの道を人が行き来していたとしたら、私はその作品の存在に気づくことはできなかっただろう。

私は仏塔を囲む塀に視線を移した。すると日中ならば、真っ白に輝くきれいな塀のはずなのに、このときは黒っぽく何かが描かれているのである。これだけ人がいないと、落書きをする人もでてくるのだろうか。しかしここはラオスの象徴ともいうべきタートルアンの敷地内である。信仰心に篤いラオスの人々はもちろんのこと、観光に訪れる人々だって、さすがにそのような罰当たりなことはしないはずである。

よく見ると、それは「影」だった。道を挟んで塀とは反対側に立っている大きな木が明かりに照らされ、その影が塀にくっきりと映っていたのである。そしてその木の葉と葉の間を縫うようにして、「光」が届き、塀を淡いオレンジ色に輝かせていたのである。

「最も深い意識の意義は真の無の場所ということでなければならぬ。概念的知識を映すものは相対的無の場所たることを免れない。いわゆる直覚において既に真の無の場所に立つのであるが、情意の成立する場所は更に深く広い無の場所でなければならぬ。この故に我々の意志の根抵に何らの拘束なき無が考えられるのである。」
これは日本の哲学者である西田幾多郎の言葉である。

西田幾多郎は無というものは大別すると「相対的無」と「絶対的無」があると考えた。私たちは日常生活において、知覚を用いながら、そこに石が有るとか、そこに石が無いとかという「有無」を受け止めているが、西田幾多郎によればそのときの無はあくまでも有との関係において無いというだけなので、「相対的無」であると考えている。

私が春節当日に見た作品は、まさに相対無と相対有によって描かれていた。塀の反対側には確かに大きな木が「有り」、幹や枝や葉が「有った」。だから、明かりに照らされて塀に黒い「影」を映し出したのである。では影以外の場所は一体何なのだろう。そこには「影」ではなく「光」が「有った」。しかしそうして「光」が「有る」ためには、木の幹や枝や葉が「有って」は成り立たない。逆にそれらが「無い」ことで、初めて「光」は塀に届き「有る」のである。そうして木にまつわる「有」は、「影」を作り出し、木にまつわる「無」は、相対的な有無の世界の話であるがゆえに、「光」を作り出していた。あの作品が成り立つためには、「有」も「無」も相対的に存在している必要があった。そして実際、どちらも存在していた。だから「有は影、無は光」だったのである。

ちなみに「塀、フェンス」はラオ語で「ຮົ້ວ(フア)」という。タイ語では「รั้ว(ルア)」になる。

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