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❖足元美術館XXⅧ(美に抗おうと思ってもそこから抜け出すことはできず結果として美になっている世界)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2023年11月19日)

【記事累積:1846本目、連続投稿:791日目】
<探究対象…美、砂、足跡、ライプニッツ>

本日ご紹介する足元に展示されていた美術作品のタイトルは、「美に抗おうと思ってもそこから抜け出すことはできず結果として美になっている世界」である。一体どんな作品なのだろうか。

その作品はメコン川のラオス側に面した寺院の敷地内に展示されていた。寺院の名前は「ວັດໄຊສະຖານ(Xaysatant Temple)」。メコン川に沿って走っている大きな通り(Thadeua Rd)を南に向かうとCollege of National Defenceという大きな建物が見えてくる。この建物の所で道は左右に分岐するのだが、そのままメコン川に沿って走る道を少し進んでから脇道に入ったところにこの寺院はある。寺院そのものについては別の機会に綴ろうと思う。

この寺院は入口側には道と敷地を隔てるための壁が設けられている。しかし中に入ると寺院の奥はそのままメコン川と接しているので、そちら側に壁はない。そして川と接続していることが分かるのはそれだけではない。川の方から吹き込んでくる風が運んできたのか、寺院の地面は細かな砂で覆われていた。ラオスは内陸国なので海はないのだが、まるで海に面した砂浜のような雰囲気が寺院の中には漂っていた。

視線を足元に移すと、たくさんの足跡があった。どこからどこへ向かっていくかが分かるものもあれば、無邪気に動き回っていたせいかどちらから来てどちらへ行くのかが全く分からないものもある。靴底の楕円形の中に広がる幾何学模様、裸足ゆえにそれぞれの指が砂を掴んだりなぞったりしたことが分かる模様、おそらく人間ではないだろう肉球らしき模様もある。多くは歩く度に刻まれる単体の模様だが、それらとは性質を異にする模様があり、それは人間や動物などの生命体が刻んだものではないようだ。歩くことで刻む単体の断続性とは異なる、連続性を伴った数本の線も引かれていたのである。おそらくバイクか自転車だろう。そんな様々な模様たちが、それぞれの立場や性質などに拘ることなく、一体となって足元に広がる砂のキャンバスに素敵な絵を描いていた。

「モナドには窓がない」「モナドは鏡である」
これはドイツの哲学者・数学者として知られ、17世紀後半から18世紀前半に活躍したゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツの言葉と伝えられている。

ライプニッツによれば、世界(宇宙全体の意味)というものはモナドと呼ばれる最小単位によって構成されていて、このモナドはこれ以上分割することも延長することもない実体である。そして彼はこのモナドが世界をそのまま映している「鏡のようなもの」であり、モナド一つ一つがすでに世界そのものなので、モナド同士が影響し合い外部から何かを取り込む必要はないため、「窓のようなものはない」と考えたのである。そうして集まったモナドはお互いに影響することなく独立しているが、それぞれが世界そのものとして存在し、実際に世界を構成しているのである。

私の足元に広がっていた世界もちょうどライプニッツが述べたモナドのようなもので構成されていた。靴の足跡、裸足の足跡、肉球の跡、タイヤの跡それぞれは独立していて影響し合うものではない。しかしどうだろうか、それぞれが砂のキャンバスに描かれている素敵な絵を構成しているのである。それぞれが素敵な絵となるように自らの役割を意識して、そこに位置しているわけではないはずである。他の跡との関係や影響は全くなく、それぞれが独立して存在しているのである。しかし一つ一つが素敵な絵そのものを映し出しているからだろう。無秩序に思えるたくさんの跡たちが一体となって「美」という世界を作り出していたのである。仮に美に抗った形で跡を残したつもりでも、それぞれが美そのものであるがゆえに、結局は美を構成していることになるのである。

ちなみに「砂」はラオ語で「ຊາຍ(サーイ)」という。同じくタイ語では「ทราย(サーイ)」になる。

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