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【小説】 ブンガク・イズ・デッド 【ショートショート】

 土曜日の晴れた空の下、私は愛読書である日本文学全集38「太宰治」を携えて公園へと杖をつきながら向かっている。遥か昔、行く先を調べる為にスマートフォンを使っていたことを思い出しながら、遠隔で共鳴する案内信号の音声を骨震動で捉えながら歩を進める。
 路上に座り込む若者の男子二人が、こんな会話を繰り広げている。

「た?」
「い」
「な?」
「ま」
「うー」
「まー」

 二人はシートフード(フィルムに好きな味覚を噴射し、味わう嗜好品だ)を真ん中に話し込んでいるが、その会話を訳するとこのようになる。

「食べる?」
「要らない」
「何故?」
「まずいから」
「嘘だろー」
「マジだよ」

 人は利便性を追求し続け、効率という時間短縮の波は生活様式だけではなく、必要最低限の言葉のやり取りにさえ波及した。一般人が読書をする習慣はとうの昔になくなり、最期の文学賞を受賞した作品の売上はわずか二千部にも満たなかった。私が太宰を読み始めた頃、彼は没後七十年を越えていたはずだが、どの書店にも彼の作品は並んでいた。優れた文学作品は例え百年でも千年でも残ると思い上がっていたのは文芸界のみならず、我々読書も然りであった。水が絶たれてしまえば、当然後には流れはしないのだ。

 公園に在る体型に合わせて自動収縮するベンチに腰掛け、ページを開く。何百、何千も目を通したはずの「斜陽」を微かな期待と共に捲り始めたその時、二十歳に満たないほどの小娘が近付いて来るなり、私の読んでいる本を無遠慮に指差した。

「じ、それ、ま?」

 深い夜を写したような黒い髪の小娘は、とても整った綺麗な顔立ちをしている。しかし、やはりこの手の話し方が私には受け入れ難いのである。

「なんだ、その意味は」
「だからぁ、それ、ま?」
「ま、じゃ分からん。これは、本だ。立派なクズが書いた、魂の小説だ」
「あー、もう! なんで伝わらないかな。その本、マジで本物かって聞いてるの。普段こんな長く喋らないから疲れた」
「本物だ。発行されてから百年にはなるか」
「ま!?」
「なんだ。若い癖に、本に興味があるのか」
「はぁ? 若い癖にとか、ま?」
「ふん。今の若い奴らは部屋の真ん中でただ座っていれば脳を一番刺激するエンターテイメントが垂れ流されるらしいじゃないか。君もそれを楽しんでいるのだろう? 大体、ページを捲るという行為がそもそも非効率で……」
「おじいさん、マジなんなの? ちょっと、若いとか非効率とかどうとか勝手に決めつけ過ぎ。私は古い物に興味を惹かれるの。それもお飾りじゃなくて現役でいられる、イコール、本当の意味で大切にされてる古くて威厳のあるもの!」
「……それも脳に垂れ流されたものに影響されたのか?」
「違う! これは私が私の意識で、自ら見つけた刺激なの! 他の人達と一緒にしないで!」
「なら……」
「なによ」
「なんで他の人達と、同じように喋るんだ」
「なんでって……そうしないと、仲間じゃないって、思われるから」
「そうか。君達はどうも、不便だな」
「うるさい! それよりも、その本……もしかして太宰治?」
「なんだ、知ってるのか?」
「ううん。知らない。でも、読みたい」
「読みたいって……デバイスから脳にインポートすれば読めるんだろ? 著作権は切れてるだろう」
「知らないの? 太宰は精神有害指定されてて、二十一歳にならないと読めないの」
「はっはっは! 太宰を読んで死ぬような臆病者は読まなくとも、犬に吠えられるだけでも、何もせずとも死んでしまうよ」
「そんなの、分からないじゃない」
「そうか。なら、読んでみると良い」

 私は小娘の小さな気概に感化され、太宰治を手渡した。本を捲りながら彼女は綺麗な顔の眉間に皺を寄せ、「長っ」と忌々しげに呟いていた。
 翌週。同じ公園のベンチに座っているとあの小娘が私の元へ駆け寄って来た。その手にはあの全集が携えられている。

「どうだ。読んでみたのか」
「も」
「も? もちろん、か」
「そう」
「どうだった?」
「都市伝説で聞いてたより、ずっと明るかったし読みやすかった」
「ははは、太宰治が都市伝説とは……。まぁ、本当か嘘か分からない点では同じか……」
「私、やりたいことができた」
「ほう。なんだ?」
「読んで良かったって思ってもらえるような小説、書く」
「……こんな時代だ。誰も読みやしないよ」
「それでも、書きたいの! せめて、書いて良かったって、思えるような小説……書く」
「そうか、まぁせいぜい頑張るといい。本も返って来たし、私も帰るよ」
「ねぇ」
「……」
「もし、書いたら」
「読むから、またここへ来れば良い」
「……あり!」
「人にお礼は、ちゃんと言いなさい」

 昼間の公園を出る。一度だけ振り返ると、そこには深々と頭を下げ続ける小娘が在った。
 私はこれほどまで愉しい気分になったのは何十年ぶりだろうかと噛み締めながら、家路を急いだ。
 私の家は、昔は「アパート」と呼ばれていた古臭いボロ屋の並ぶ区画にあった。時代は進み、便利になり、私達は置き去りにされた。この区画へ入って来る人々は住人以外にはおらず、また、往来の制限もされている。我々はただ歩くことだけを許された惨めな存在で、小娘達の生きる世界の「仲間はずれ」にすらなれない。
 それでも、私の胸は躍っていた。花が咲き狂い、横一列に並んだ鳥達が木陰の上でダンスをしながら春の歌を唄っていた。
 この世界で、まさか……太宰治の新たな読者が出来た。そして驚くべきことに、新たな作家が生まれようとしている。さらに、そう遠くない未来に新たな作品が現れるかもしれない。
 私は一人きりの部屋で高鳴る胸を隠しもせず、鏡の前で小躍りをしてみた。動きの鈍い老人が、そこには映っていた。
 散々踊って疲れた私は、テーブルの上でスイッチが入ったままになっていた「エンターマシン」に手を伸ばす。貧困独居老人の自殺防止に、国から無料レンタルされたものだ。若い者達のことをさんざ批難しておきながら、今の私もこのザマである。
 小躍りをしながら、スイッチを切る。
 瞬間、胸が騒がしかった名残だけを身体に感じた。
 部屋を見回してみたが、いつも通りの小汚い部屋のままで、テーブルの隅に置かれたまま薄らと埃の積もった日本文学全集38「太宰治」が目に飛び込んで来た。

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