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趣味についての向き合い方

どうも皆さん、こんばんは。
先週は自分自身が最近何をしているか、またどのような方向に興味関心が向かっているのかを書き残しました。打ち残しましたの方が正確か。デジタルデジタル。

読んで頂いた方ならお分かりでしょうが、かなりバラバラな方向に興味が飛び散っているように見えます。流行りのゲームをしていたと思えばオーケストラの演奏会に向かい、かと思ったらご飯の話ばかりしている。ピアノ教室に行ったと思えば、そのままの足で甲子園に向かい野球観戦をしたり。

様々な場所へ旅行をしていても、その内容はグルメの旅であったり、芸術鑑賞の旅であったり、こないだ行ってきたものなんてお遍路の旅でしたからね。様々です。

傍から見ていると、特に何も考えずに思いついたままに行動していて、何一つ整合性が無い人間のような印象を受けるかもしれません。
確かにその視点もある意味では正解で、思い立ったが吉日とばかりに行動するのは私の良くも悪くも特徴です。

しかし今回は、そんなバラバラな行為の中の通底する信念を強調する機会に、この記事を使いたいと思います。それではよろしくお願いします。


趣味をどう捉えるか

まずは、趣味という言葉をどう捉えているかのお話からしましょう。

しゅ‐み【趣味】 の解説
1 仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。「―は読書です」「―と実益を兼ねる」「多―」

2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向。「―の悪い飾り付け」「少女―」

3 物事のもっている味わい。おもむき。情趣。

「さびた眺望 (ながめ) で、また一種の―が有る」〈二葉亭・浮雲〉
goo辞典

さていつも通り引用してきました。私の個人的な感覚として、趣味という言葉は上記の1,2,3を複合させたような概念として捉えています。

私は英単語を勉強してて思っていたことがありました。それは、英単語というのはただ1つの限定された意味に直訳することよりも、様々な言葉で訳せるならばその核となるニュアンスを掴み取ることが大切だ、ということです。

日本語の単語も私は例外では無いと思っています。上記の1の使用法の中でも、その人の感覚のあり方や物事の味わいというニュアンスは内包されているはずです。それは2でも3でもそうです。それぞれが大きな概念の一側面を説明しているに過ぎないように見えます。

何だか話がどんどん逸れていっているようですが、つまり言いたいのは趣味とはその人の感覚やセンスが発露する物事なのだ、ということです。
発露する機会を与えてくれるもの、とも言い換えられるかもしれません。
そのように少なくとも私は捉えています。

センス・感覚、披露の場。

クリエイティブな仕事を生業にしているならば話は別ですが、ほとんどの人にとって自分自身の感覚やセンスを披露する場、というのはあまりありません。自分自身が一体どのような趣味嗜好を持っており、何を良しとしているのか。これを披露する機会は能動的に動かなければおそらく増やせないでしょう。

そのような意味でSNSというのは、その場を全世界の人間に解放した素晴らしいコンテンツです。あれもひとつの趣味として語る余地があるほどでしょう。趣味を披露する場でもありながら、それ自体が趣味になりうるという二重構造は非常に興味深いです。

ただ、語るものがここには必要です。そのための趣味というのが必要です。自分自身の感覚やセンスを代弁してくれるものとの出会いというのが重要になってきます。
現代の素晴らしい所は、自分自身がクリエイターでなくても、趣味を提示することでセンスをアピール出来るところだと私は考えています。

趣味は多ければ多いほど自分が見える

そこで私はこう考えました。趣味は多ければ多いほど良い、と。1人の人間として、何が好きで何を良いと思うのか、それを様々なジャンルで考えれば考えるほど自分という存在が見えてきます。

もちろん好きなことだけじゃなく、苦手なことだって見えてくるでしょう。得意じゃないことの方が人間多いものです。しかしとりあえず、やってみる。今すぐにやってみる。

8ヶ月ほど前に書いたこの記事も、私の考えを音楽のプレイリストのように捉えて考えたものでした。趣味は口ほどに物を言うのです。

趣味の平等主義

そして様々なジャンルのものに触れる時に、私が最も大切にしている考えがあります。それは趣味の平等主義、という考え方です。
これは私が勝手に言っている言葉なのですが、どのような事柄であっても高尚や卑俗などと考えずに全てをフラットに捉えるべきだ、というものです。

どうしても世間では、美術館での芸術鑑賞や、オーケストラの演奏会などは高尚なものとして、そしてゲームや漫画、流行りものなんかは俗なものとして捉えられがちです。しかしこれでは分断を産むだけじゃないでしょうか。

お互いがお互いを敬遠し合うような風潮は私は好きではありません。どのようなものであっても作品であることは確かであり、そういう意味では芸術作品と捉えることだってできます。歴史が、伝統がなどと言っているだけでは何も前進しません。

権威主義的な発言が横行しがちな物事であっても、一時的な時代の波に持て囃された物事であっても、関係なく1つの目の前にある存在として自分が向き合い、捉える。この姿勢が大事なんじゃないでしょうか。

昨今は平等であることをより求める風潮が強まっていますが、依然趣味に関してはどうも未だに分断は深まったままです。趣味というものの性質上ある意味では仕方の無いことですが、なんだか勿体ない。全人類が多趣味な世界を私は希求します。

同じ物事であっても、どこを良いと捉えるかでその人の感覚やセンスが浮き彫りになります。多趣味になればなるほど、それはよりハッキリ、くっきりと見えてくるはずです。

なんのために生きているか分からない、自分自身がどのような存在かわからない。そんな悩みだって趣味を増やしていけば解決してしまうとわたしは考えています。もう一度言います。趣味は口ほどにものを言うのです。


最後に

比較的多趣味と言われる私ですが、正直まだまだです。1つ1つの趣味に関しても、更に深堀りしていきたいという気持ちが強く、こんな中途半端な現状ではとてもじゃないけれど多趣味だと自分から言うことはできません。

だからこそ、1日1日を大切にしていきたいと改めて思います。数少ない残りの学生生活は、その基盤を作るためにあてるつもりです。本当の意味での多趣味に近づける日を願って。
ではまた来週お会いしましょう。さようなら。

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