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私自身がプレイリストではないか  -カルチャーリスト論-

どうもこんばんは、私です。ついに2月になりましたね。今月いよいよ私は21歳になります。
まだ21か、若いな。
まあそういう意味でも2月というのはなんだか思い入れのある月です。今月も元気に過ごせることを願っています。


エッセイ 『好き嫌い』


前回の投稿は『好き嫌い』をテーマとしたエッセイを依頼されたので、慣れないながらも書いてみたものでした。

自分の中でエッセイは何となく、である調で書いている印象があったので、柄にもなくその文体にしてみました。いやはや、エッセイ、難しい。
自分自身ここ1年で初めて読むようになったジャンルだったので、まだまだ自分らしさは確立できていないようです。これからまた何度も挑戦してみたいと思います。

そしてエッセイ寄稿集はこちら。ぜひ読んでみてください。


さあ気を取り直しまして、今回は週一note第4回目です。今回のテーマはプレイリストならぬ、カルチャーリストです。これは自分自身をより大きな視点で見る必要があるな、という気持ちから生まれた考え方についてのお話です。

カルチャーリスト論

3年間継続中 プレイリスト今月の10曲

私は2019年から約3年間、今月の10曲と称してその月によく聴いていた曲をプレイリストとしてまとめるという習慣を行なっています。こちらは先月のものです。またお暇な時のお供にでもしてください。

音楽という限られたカルチャーに限った習慣でしたが、このプレイリストという考え方をよりカルチャー全体に適用することが出来るのではないか、そして自分自身の考える現代の個人のあり方を捉え直すことができるのではないか、最近そのように考えることが多かったのです。そこでひとつの結論に達しました。

自分自身、ある種プレイリスト

そうです、自分自身をある種プレイリストとして捉え直すことが出来るのではないかという結論に至りました。ではここからは詳しくその考えについて説明することとしましょう。

インターネットの世界が現実世界と同じく、いやそれ以上に重要となっている昨今において、ネットで自己発信を誰でも行えるようになりました。

それによってYouTuberやインフルエンサーなど、様々な形で自分自身をコンテンツ化させた、1個人の影響力を大きく超えた存在が多く見られるようになりました。

彼ら彼女らと自分たちを比較して、我々と別世界であると考えてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。世界中全ての人間がコンテンツ化しているように感じます。

それは今私が書いているnoteであったり、Twitter、Instagram、全てです。Instagramのストーリーであげられている、美味しそうなご飯。コンテンツのシェア、それが集合体となる事で、もはや新たなコンテンツとなっています。

趣味趣向が完全に一緒の人間など、1人たりとも存在していません。であるからこそ、個人のコンテンツの共有はもはやコンテンツであり、自分自身がある種のプレイリストとなっているわけです。

プレイリストだと、少し音楽要素が強すぎるので、新たな言葉としてカルチャーリストという言葉をここで提示しておきます。カルチャーには様々な意味が含まれていますが、だからこそここで用いたい。より広い範囲を包括した概念であると示すためです。

とにかくここで言いたいのは、一人一人がコンテンツ化しカルチャーリストとなっているからこそ、自分自身で発信すること、それを周囲が受容することを楽しむ心意気が大切だということです。

我々は相互作用によって常に変化し続けます、より良く、より楽しめる生活がその先に待っていると私は信じています。あなたのカルチャーリストを見せてください。
私のものは、このnoteに残していきますから。

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