見出し画像

コミュニケーション能力について。

どうもこんばんは、私です。1週間が濃すぎるからか、noteを書いているのがとても久しぶりに感じます。どんなに忙しくても毎週金曜日の夜9時はここに帰ってくると決めていると、なんだか安心感がありますね。誰であれやはり、自分自身を支えるような家が心の中にも必要なのだと改めて思います。

と、書いていたんですけれども金曜日に今回投稿するのが間に合いませんでした。2日遅れての投稿となります。忙しいとこうなります。仕方ない。
ええ導入やと思ってたのに!出鼻くじかれた!


コミュニケーション能力

さあそんなことは置いておいて、今回はコミュ力、つまりはコミュニケーション能力について話したいと思います。
というのも、ここ最近様々な社会人の方と関わる機会がやけに増えています。そりゃそういう時期ですから、好む好まざるとにかかわらずね、はい。

それが「コミュニケーション能力がある」とは一体どういうことなのかを改めて自分で考えるきっかけとなり、まあ今回話のテーマになったというわけです。前置きはこれくらいにしておいて、話しましょうか。

お喋り好き≠コミュ力高い

日本語で「コミュニケーション」というと、基本的に人間同士が言葉を主な伝達手段に用いて行う意思疎通を指す、といえる。 
weblio辞典

大前提として、コミュニケーションと言うと日本では人間同士の意思疎通という意味で用いられます。この人間同士の意思疎通である、というところがとても大切で、これは相手がいるからこそ成立する概念であるということになります。

これはよく言葉のキャッチボールと例えられるように、自分が投げた言葉を相手に受け取ってもらい、相手が投げた言葉はしっかりと受け取らねばならない、ということです。

つまり、自分の話をする事が大好きな、所謂お喋り好きであるだけではコミュニケーション能力が高いことにはならない、といえるでしょう。
自分の話をしたいだけのお喋り好き同士の会話、それは例えるならば言葉の雪合戦であり、ひとつの話題、ボールを共有することが出来ていませんからね。

ここから、お喋り好きであることはある種コミュニケーション能力が高いことの必要条件ではあるものの、十分条件では無いと言えると私は考えています。イコールでは結べない理由はそこにあります。

コミュ力を支えるものとは

では、コミュニケーション能力の高い人となるために必要なものとは一体何なのでしょうか。
それは体系的で広範な知識であると私は考えています。どういうことか、これから説明しましょう。

先程、お喋り好きであるだけでは言葉のキャッチボールをできる段階に到達出来ていない可能性が高いというお話をしました。これは何故なら、お喋り好きという概念が非常に主観的な概念であるためです。

お喋り好きというのは、あくまで自分が投げたいボール、話題を相手に投げる意欲が他人より強い人のことを表している表現であると考えられます。
それに対してコミュニケーション能力が高い人とは、相手がどのような話題を投げかけてきてもそれに対応し、自分の意見を表明することが出来る人であると言えるでしょう。つまり、コミュニケーション能力の有無については、主観的にでは無く客観的な概念として捉える必要があるのです。あくまで相手の話題が出発点であるべきなんです。

色んな形状のボールがあるように、私たちの周りには様々な学問があり、芸術があり、文化があり、話題があります。その全てを知ることは不可能でしょうが、体系的な知識形態を頭の中にある程度構築しておくことで、様々な人との会話がより円滑に、自分自身の考える言葉を用いて行うことが出来るはずです。これこそが本当のコミュニケーション能力なのではないでしょうか。

勉強の重要性

よく大人が、若いうちにもっと勉強しておけば良かった、と言っている所を聞いたことが皆さんもあるのではないでしょうか。これには様々な意味が込められていると思います。例えば、若い頃の方が記憶力も良いでしょうし、時間もありますし、体も動きます。しかし、なぜじゃあ勉強がそもそも必要だと思うのか。

私はそれは、社会で生きる上で必要なコミュニケーション能力を獲得するにあたって、知識を持つことの重要性を痛感したからではないか、と考えています。
どのような仕事であっても、人と一切関わらない仕事というのは存在しません。人間という生物は社会性を持つことでここまで発展してきました。その中でコミュニケーション能力という力の重要性は、他の生物より圧倒的に高くなっています。

学生のうちは、自分の趣味嗜好に似通った人達と群れるだけで生きていくことが出来るでしょう。そこでよく喋る人はお喋り好きと見られるでしょうし、本人も自分自身がコミュ力の高い人間だと考えるでしょう。

しかし、社会というのはそれほど甘くはありません。自分と異なる考えを持っている人と好む好まざるとにかかわらず同僚となり、取引相手となる可能性がいくらでもあります。
ここで必要なものこそが知識です。まずは相手のボールの形状を見極める必要があるためです。何が投げられてくるのか、どのように投げられてくるのか。これは知識がないと絶対に判別することは出来ません。コミュニケーション能力は絶対的に知識に依存するのです。

こんな勉強、知識がなんの役に立つんだ。何のために勉強しているのかが分からない。今の時代、検索すればなんでも分かるじゃないか。そう考える人に私は改めて言いたいです。
勉強をする理由は、コミュニケーション能力を高めるためであると。

どれだけ社会のデジタル化が進んでも、社会はあくまで人間同士の関わり合いにほかなりません。個人間の交流が無くなることはありません。勉強はそれに必要なものを与え続けてくれます。生身の人間同士のぶつかり合いのポテンシャルを高めるための栄養と言えるのです。社会人になり、その壁にぶつかった人は栄養失調となり、過去を憂うのでしょう。

私は本当の意味でのコミュニケーション能力の高い人間となれるよう、これからも精進していきたいと改めて思います。社会に出ることでその気持ちはさらに強まるでしょうし。


今回は気合いが入ってしまって長くなりました。しかし社会人の方と話している中で感じたんです。様々な分野の知識を持っていると会話が盛り上がると。コミュニケーションの本質をそこで感じましたね、はい。

とにかく日々勉強ですね。これは死ぬまででしょう。そういう意味では学生って、一生続くのかもしれませんね。それではまた来週。さようなら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?