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大嫌いだった父が尊敬する父になった話

本記事は当初は自分のミッションについての記事にしようと思ったのだが書いているうちに段々と親子関係がテーマになった。

特に父との関係性について悩んでいる人にとっては一読する価値があるかもしれない。

自分がこの世に生まれたからには必ず両親がいる。
そして両親との関係性は年齢や、家庭環境などが要因で変化していくものだ。


私にとって父は人生最大の反面教師だった。

けれどそのドスの利いた反抗的な感情は最終的に尊敬と感謝に変わった。


なぜかというと父は私の人生にとって大切なことを教えてくれたからだ。


大っ嫌いだった父

私の父は4年前、60代の後半に差し掛かったところで永眠した。

日本の男性平均寿命より遥かに若く亡くなったの要因は早い話、本人が暴飲暴食をやめられなかったからである。

父は大手の食品メーカーに勤め、仕事も家庭も父としての役割を立派に果たしていたが私が物心ついた頃から、健康管理についてはだらしなかった。

高血圧、糖尿病、脳梗塞など俗にいう成人病と呼ばれるものはほぼほぼ網羅していたと思う。
あまりにもの自制心のなさに医者も匙を投げたほどで母もかなり苦労していた。

それでも運動をしたり、リハビリテーョンに通ったりするなどアクティブに活動をしていたので日常生活を不自由なく遅れるほどの健康状態をかろうじて保っていた。

しかし、私が12の時に最愛のパートナーである母が亡くなってからは父は以前のようにアクティブに活動することはなくなった。

以前のように家族でサイクリングに出かけることもなければ、親子二人で銭湯に出かけることもなければ、趣味のプラモデルをすることもなくなった。

仮病を使って仕事を休むことも多くなった。

その溝を埋めるように以前より父は暴飲暴食に歯止めが効かなくなった。
少し出かけたと思えば酒やら惣菜やら料理もしないのに調理が必要な食品をたらふく買い込んでいた。

けれど家族としては節制するように咎めないといけない。
酒を取り上げる度に言っていたのが父のこのセリフだ。

「儂にはこれしか楽しみがない」

それは酒を取り上げている私を説得しているようにも聞こえたし、酒をやめられない父が自身を説得しているようにも聞こえた。

いずれにせよ、そのような理由が通るはずがなく、毎日のように親子喧嘩を繰り返していた。

やがて認知症の症状が進んで父は一度家を出ると家に帰ってこれなくなった。

病院に入院して落ち着いたと思ったら病床から抜け出したり、暴言を吐き出したりして私は頻繁に病院に呼び出された。

そんな当時の私は絶対に父のような人生を歩まないと心に誓っていた。

父が人生の反面教師だったのである。

そんな大嫌いな父に対して私が心変わりしたのは父が特養(特別養護老人ホーム)に入って数ヶ月した時のことである。

本当の想い

ある時、特養の介護スタッフさんから父の施設内の様子について話を聞いていると

「お父さんはよく息子さんの話をされていますよ」というのだ。

私の前では自分の欲求ばかり口にする父にしては珍しい話だった。

父がいったい何の話をしていたのかと話を伺ってみると

「お父さんは息子の足だけは引っ張りたくないとよく言っていますよ」と言うのだ。

まさか、と私は思った。
他にも息子は音楽活動をしているとか、いつかライブを見に行きたいとか言っていたらしい。

頻繁に施設を徘徊するのも息子の面倒にならないように父なりに自立をしようとしていたらしい。

結果的には空回りの結果になってしまったわけだが私はその時、一連の行動の意図というのもようやく理解できた。

父は父なりに、父として生きようとしていたのだ。

母が亡くなったときから、父は必死に生きる意味を探していた。

けれど、見つからずに結果的に食という本能的欲求にすがるしかなかった。

例えそれが自らの健康を悪くする行為だとしても、それが父の生きる意味を繋ぎ止めていたのである。

不器用な父である。

私はその話を聞いて一つの決意が生まれた。

それは東京に引っ越すことであり、身寄りのない父を施設に預けて、独り立ちするということでもある。

その日に父に面と向かって東京を住むということを伝えた。

父はただ「あぁ」としか返事をしなかった。

「行ってこい」とも「行くな」とも言わなかった。

きっと父なりに色々な気持ちが入り混じっていた返事だったのだろう。


東京に移ってからも月に一度地元に帰って父と面会していたが日に日にやせ細り、言葉すら発せなくなっていく父をみているのは非常にいたたまれなかった。

それでも私の前では辛い表情を全くみせなかった。

言葉が話せなくなっても面会すれば目を合わせながらなにか意思を伝えようとしていたのが感じられた。


当時の私は介護施設の費用やら、実家のローンやら、滞納した税金やらかなりの借金に頭を悩ませていた。

しかし、市の調査で父がこっそりと眠らせていた銀行口座があり、その口座に長い年月をかけて少しずつお金を積立てくれていたらしい。

さらには望み薄で申請した医療保険の認可がおり、かなりの額がおりることになった。

そして、父を東京で面倒みようと都内の介護施設を入居申請し、あとは父を東京に移すだけという時に父の容態が急変し、亡くなった。

まるで「これ以上儂にかまうな」と言っているかのようだった。


私は父の遺してくれた財産で借金を全額返済できただけではなく、自分の仕事の学びに自己投資したり、開業資金にし、都内の一等地にサロンをオープンすることができた。

父は自分の尻を拭っただけではなく、私の道を切り拓いてくれたのである。

まとめ、親子関係とはなにか

本記事でなにが言いたかったのかいうと私の尊敬する先生の受け売りになるが

親子間はなにがあっても最終的には許されるのである。

嫌なことも、辛いことも、お互いに人生に必要なテーマであり、学びであると私は思う。

もちろん私はまだ父親にはなったことはないので鼻高々に言えたことではないがこの先父親になった時

父が私に教えてくれたものを子供に伝えていくつもりである。



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