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日本舞踊の身体論


皆さん、盆踊りを踊っていますか?

盆踊りはオフシーズンに入りましたが、盆ダンサーたちは装いを新たにして、踊っているようですね。
高尾可奈子です。

盆踊りを深い部分まで楽しんで、上手く踊るためには、舞踊にまつわる書籍がきっと役立ちます!


今回は、渡辺保さんの著書、『身体は幻』のご紹介。



この本の中で、これまてま知らなかった日本的な身体観が見えてきたので、少しだけまとめてみようと思います!




三人の「私」


これは、日本のあらゆる伝統芸能の基本的な考え方だそう。


具体的にみていくと、
①本名で一般市民の素のままの私
②舞台の上での芸名、肩書の私
③役柄として生きる私



舞踊を踊るとき、この3つの存在が同時に現れていく。
どれか一つはもう一つの私の元になるし、一つが欠けると他も存在できない。


盆踊りは①の側面がほとんどですが、見ている人がいれば②の部分が出てきたり、音頭や曲目によってはテーマ性があり、演じる部分の③の部分が現れてくる可能性もありますね。


「本歌取り」式に進化する舞踊


日本の古典芸能は、能から歌舞伎、舞踊から新たな舞踊へと続いている、流れがあります。


その中で素晴らしい作品は、
原作から引用や挿入、転換をすることによって巧みにつくりかえられて、二重三重の意味の層、空間をもつようになりました。


和歌の世界で言う、本歌取りのように。

そして、その奥深い創造力が、観客の創造力をも沸き起こすので、面白さを感じられるようです!


踊りと音楽「付かず離れず」の法則


皆さんは、踊りに関する日本語をどれくらい知っていますか?

よく聞かれる言葉で、
舞、踊り、振り、があります。

この3つの言葉は、厳密には違う意味の舞踊について表している言葉なのです。


かなり大雑把ですが、舞は能の中にあるような動きで、踊りはそこから派生した歌舞伎にあるような自由度の高い動き。振りは、〜の真似事のように何かに当ててつけられる動きです。

そして、振りが詞をそのまま表現しすぎると良くないし、離れすぎても良くない。
その距離が近付いたり離れたりするバランスの巧みさで、舞踊は面白くなるといいます。


踊り手の身体と音楽の関係、踊り手同士の関係も然り。


その究極は、踊り手の身体から音楽が聴こえてくるようになるのです。

盆踊りなら、集団で踊る面白さがあるので、時々動きが揃ったりまた時々は自分の感じるリズムで動いたり、、
曲の意味と振りの意味を考えたり、時には無になって踊ったりとバランスがあるのが良さそうですね。


音の成立のふしぎ


様々な舞踊音楽で使われる楽器は、太鼓や笛など長い歴史のあるものばかり。


その中でも、笛は連続音を生み出し、太鼓は反対に短い音を出します。

この組み合わせで、立体的な空間が浮かび上がるそう。

さらにそこに踊り手の物理的な身体が入って初めて、抽象的な世界に昇華される。


日本の楽器は独立して存在できないというユニークな特徴があります。


また音と音、言葉と言葉の間の空白の時間に、重要な表現が立ち起こります。

間が重要な踊りの要素なのです。

舞踊家の究極の身体


振りも技術もコンピュータのように身体の一部分となっている上で、上手く踊ろうという邪念なく、全てから自由な状態で無の境地で踊るのが名人芸。


一瞬が永遠であるように、死を予感させる身体こそ美しい。

身体が今にも崩れそうな、際どい緊迫感、そんな瞬間にみえるきらめき、光こそ舞踊の一つの到達点であるようです。

歌舞伎役者でも踊り方は千差万別



より魅せる踊りの要素が強い歌舞伎では、大きく2つの種類の名役者がいるという。


純粋な踊りの正確さと型の美しさで踊りの面白さを見せる人
そして
十分な身体で空間をつかんで踊る、芝居や溢れ出る個性で見せる人
雰囲気をつかんで空気で踊る人

明治以前は拍手の文化なし


能や文楽では、たとえ音が終わっても、その後の無音で舞台の余韻を味わうのが醍醐味です。

しかし、西欧文化の導入とともに曲ごとの拍手やカーテンコールがお馴染みになったことで、
舞踊独特の音の繋がりや精神のつながりが途切れてしまうことが増えたようで、少し勿体無いなと思いました。

身体の声とは、3つから生まれる


振りと、内面の腹の内と、踊り手の人生の深層。

3つが繋がりあってはじめて観客に語りかけてくるものがあります。


本の中では西欧文化ではどうなのかは触れられていませんでしたが、ニュアンスは多少違えど、近いものはあるのではと思いました。

例えば、オペラ椿姫だと、曲に忠実な発声と発音、ビオレッタの情熱と消える命の心、そして歌い手の背景全て。

普遍的な人間の暗い部分が見えることで、同時に観客のなかにも姿を表してくるので、場の一体感が起こるのです。

和服は身体をイメージ化する


身体がそのシルエットを隠す和装に包まれ、身体の輪郭が空間に溶けていったとき、一つの物語が見えてくるのが、舞踊特有の構造。

さらに舞台から客席いっぱいに踊りが広がっていくことで初めて観客との一体のコミュニケーションが成立するのです。

日本的な身体観


西欧では近代科学にあるように、身体はまず物として捉える価値観が強いようです。

一方で、日本人は身体を魂のためのあくまで器、殻に過ぎないと考えて、イメージ化した身体観をもっています。


この違いが、それぞれの身体芸術の基本的な形や動きの違いを生み出しているようです。




今回は、渡辺保さんの書かれた「身体は幻」から、日本的身体論について考えてみました。


ほとんど完全に西洋化した現代の私たちにとっては、100年前には普通だった身体感覚でも新鮮に興味深く感じられますよね!


是非一度読んでもらうと、さらなる発見もあるかと思いました。


また、書籍紹介をしていきますね。
高尾可奈子でした!

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