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ノートの勧め(その3)——余白について。

 結局、ここで言う「ノート」とは余白のことか、と思ったりもします。
 もちろん、人によってノートをつける目的は様々です。取材ノートとか、料理ノートとか。でも、この場合のノートはメモと置き換えてもいい。
 前回の投稿には「創造的なノート」というサブタイトルをつけました。メモというのは備忘録の一種、ヴァレリーがつけていたような「ノート」は、おそらく自分自身と対話するためのもので、彼はそのときの言語を「自我語」と呼んでいたほどです。公の場に発表する文章は、この「自我語」で考えたことがらをフランス語に翻訳しているのだ、とも。
 彼のノートはこの「自我語」であふれている。もちろん、この「自我語」は「造語」とは違います。むしろ、言語を超えたものというべきかもしれません。だから、彼のノートには数学の記号や式、グラフ、幾何学模様などで溢れている。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの、鏡像文字で書かれた手稿マニュスクリもそうでした。ヴァレリーは一八九五年(二十三歳)に「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」というエッセイを雑誌に発表しています。美術評論とはまったく異なる斬新なエッセイを書くきっかけこそ、このレオナルドの手稿の存在だったということです。
 彼のカイエは、このレオナルドの手稿の存在を抜きにしては考えられない。そして、パスカル・キニャールもヴァレリーのカイエを意識して、早朝のノートをつけはじめた。
 でも、キニャールの場合、ヴァレリーのように自己(あるいは自我)との対話ではなく、書物との対話記録と言うべきものです。
 じつは翻訳とは、まさに本との対話以外のなにものでもないのです。精密に読みとったものを、自分の言語に置き換えていく。
 精密に読むとはどういうことか。
 これを言葉で説明するのは、じつにむずかしい。
 行間を読むという表現があります。
 でも正確に言えば、行間には何もない。空白しかない。
 むしろ、作者の言いたいことは字面の下にある。
 字面の下には無限の深さ、奥行きがあって、意味はかろうじて字面の表面に浮いている、とでも言えばいいのか。
 じつは、ヴァレリーの「自我語」という概念は彼だけの専売特許ではなく、どんな作家も、少なくとも芸術作品としての小説や詩を書いているかぎりにおいては、この自我語を作家の母語(あるいは使っている言語)に変換しているというのが、長い翻訳家人生の実感でもあります。
 これはそんなに難しい話ではありません。
 楽譜と音楽の関係を考えてみれば、容易に想像できることです。
 楽譜には、作曲家の頭に浮かんだメロディーやフレーズがそのまま書き写されているわけではない。音はそもそも形のないものだ。それを記号に置き換えているわけだから。近似的なもの、あるいはもっと身も蓋も無い言い方をするなら、便宜的なものと言ってもいい。
 だからこそ一つの楽譜に対して、無数の音楽家たちが無数の解釈をほどこして演奏をするということになる。そして無数の評論家、無数の聴き手が、それに無数の評価を下すことになる。
 文学作品の場合も、翻訳家は演奏家と同じように、書かれたものの奥に、作家が、音楽家が最初に頭に描いた風景なりメロディを探り、それを自分の道具——作家なら筆記用具やコンピュータ、音楽家なら楽器——で再現しようとする。
 作家も音楽家も目に見えないものを捕まえようとする。翻訳家も演奏家も、その目に見えないものを活字なり楽譜の奥からつかみ出そうとする。
 余白は空白にすぎない。
 でも、この空白には目に見えないものが滲み出ている。
 目を凝らせばそれが見える。
 なぜ人はノートを開くのか。
 白紙の上に架かる虹のようなものが見たいから。
 白紙はかならずしも文字や記号で埋め尽くされるためにあるわけではない。
 ちょっと飛躍が大きくなってきたかもしれません。
 もう少し頭を整理して、さらに続けてみましょう。

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