高橋啓

翻訳家。北海道帯広市在住。40年東京で暮らしていましたが、10数年前に猫を連れて里帰り…

高橋啓

翻訳家。北海道帯広市在住。40年東京で暮らしていましたが、10数年前に猫を連れて里帰りしました。その猫も去年(2022年)秋に19歳で世を去り、老母もつい最近、高齢者住宅に入りました。翻訳三昧の毎日です。

最近の記事

冬の心(その5)——ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ。

 カミーユから修理を託されたヴァイオリンを前にして、ステファンの頭で鳴る曲の描写。しかし、今、自分で書いたものを読み直し、あらためてラヴェルのヴァイオリン・ソナタについて調べていくと、自分がとんでもない勘違い、あるいは確信犯的ともいえるアクロバット的な小説化をやってのけていることがわかる。冒頭の引用は次のように続く。

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    • 冬の心(その4)——ラショーム先生

       場面は転換し、パリ中心部の少し光のくすんだアトリエや活気のあるレストランの内部から、鬱蒼とした森に包まれたラショーム先生の自宅へと移る。この場所を「ヴェルサイユに近いサン=マルタンの森」に設定した根拠は何かと問われると、もう明快には答えられない。考えられることはまず、ヴェルサイユという地名がシテ島と同じように、たとえフランスやパリに行ったことのない日本人にも馴染みのある地名だということがあるだろう。

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      • 近況——偶然について。

         連載形式の「冬の心」(有料マガジン)のページを立ち上げましたが、週に一度欠かさず連載するのはかなりしんどく、長い連載になりそうなので、単調さを避けるためにと身辺雑記のようなものをときどき混ぜていこうかと思っている次第です。  有料ページを設けたのは、いささかでも収入の足しになどとおめでたいことを考えたからではありません。いわば退路を断つというのに近いかもしれません。無料で人の顔色をうかがいつつ(?)書くというようなことを続けているとだんだん力が削られていくような気がします。

        • 冬の心(その3)——出会いの場面。

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        冬の心(その5)——ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ。

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        • 冬の心
          5本
          ¥1,000

        記事

          有料化について

           お金を払ってでも読みたい文章というのがどういうものか、正直言ってよくわかりません。  ただし、この note のページを開設したときから、有料にすることは射程に入っていました。それを提案してきたのは、このページの編集担当をしている娘です。無料が前提のブログ(十勝日誌)で文章を書き続けていくことに困難を感じている父に、SNSが当たり前の世代の娘が、こんなのも、あんなのもあるよと教えてきてくれたなかのイチ推しが、この note だったのです。  ブログへの文章投稿を継続すること

          有料化について

          冬の心(その2)——シテ島のアトリエ。

           今、パリの街はオリンピックで湧き上がっている。でも、これまでの盛り上がり方とは様子が違う。なぜなら、パリの街そのものが競技会場と化しているから。選手たちが船に乗ってセーヌを降る前代未聞の開会式もさることながら、一部の競技はセーヌ川とその周辺のオープンスペースで繰り広げられることになっている。  百年ぶりのオリンピック開催ということもあって、世界各国から観光客も押し寄せている。開会式を狙った鉄道襲撃事件も起こり、治安当局はさぞピリピリしていることだろう。  でも、テレビに映し

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          冬の心(その2)——シテ島のアトリエ。

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          冬の心(1)

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          冬の心(1)

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          遠近法(その3)——イタリアびいき

           ここ最近の自分の投稿を読み返していると、われながら力のない文章が続いていると痛感します。四月の下旬から六月の下旬にかけて、二冊の原書を立て続けに読んで、しかもどちらもボツにしてしまったので、よほど疲れたのだろうと思います。寄る年波ということも実感させられます。  前回、塩野七生の『ルネサンスの女たち』を引用したのは、若い頃に読んで元気をもらった作品を思い出して気合を入れ直そうという魂胆でしたが、エネルギーが底をついているときにはどんなに頑張っても元気は出てこないようです。う

          遠近法(その3)——イタリアびいき

          遠近法(その2)——ルネサンスの女。

           前回は、ローラン・ビネの新作『遠近法』について触れました。  処女作の『HHhH』はフランス本国ではゴンクール新人賞を受賞し、日本では本屋大賞の翻訳小説部門で一等賞を頂戴し、第二作目の『言語の七番目の機能』では事故死のはずのロラン・バルトをスパイによる謀殺に仕立て上げて物議を醸し、第三作目の『文明交錯』では西洋中心の歴史地図を反転させるという大胆な試みに挑戦し、第四作目は、なんとイタリア・ルネサンスを背景にした「書簡体ミステリ」という新たなジャンルを切り拓く。  なんとまぁ

          遠近法(その2)——ルネサンスの女。

          遠近法(Perspectives)

           この前投稿してから二週間になります。前々回の投稿から数えると、二ヵ月近く、二冊の原書読みと格闘していたことになります。結果としては、どちらもボツ。編集者サイドからボツになったというより、翻訳者と編集者の合意の上で。  まさに骨折り損のくたびれ儲け、ですね。でも、こんな仕事を三十年以上もやってきたのです。人生そのものが、骨折り損とは申し上げませんが。  心機一転、話題を変えましょう。  今の仕事の中心がトリスタン・ガルシアの『7』(Tristan Garcia : 7, Éd

          遠近法(Perspectives)

          本読み(その3)——「影響」について。

           前回の記事をここにアップしてもらうために、編集担当の娘にテクストを送ったところ、本好きの知り合いから、こんなメッセージをいただきましたという報告があった。  お父さんのnote いいですね! こういう深い、こだわりを書き抜くと言うか、しっかり息を吐くような文章を久しぶりに読んだような、ほんとに書き続けてほしいと思いました!  とっさに、知り合いって誰なのときくと、近所の人という答え。出版関係の人かと思っていたので、少し虚を突かれる感じがあった。もちろん、こんな願ってもないお

          本読み(その3)——「影響」について。

          本読み(その2)——なぜ遅読になるか。

           昔と違って、翻訳出版検討用のテクストは、紙の本の形では送られてはきません。すべてPDFファイルで送られてきます(通常「データ」と呼んでいますが)。  PDFファイルは、プレビューで見ることができます(コンピュータはMacを使っているので、その用語を前提に話をしていきます)。  でも、プレビューでは書き込んだり、付箋を貼り付けたりすることはできません。原書を読み、レジュメを書く上で、この作業は不可欠です。  そのためのツールとして、私はGoodnotes というアプリ(iPa

          本読み(その2)——なぜ遅読になるか。

          本読み——近況。

           一カ月近くも休むと、なかなか書き出せません。  原書の下読みはまだ終わってません。  『7』の翻訳と並行して読んでいるので、なかなか進めないのです。日本語にせよ、あちらの言語にせよ、速読を誇る人がいますが、はっきり言って、そういう人の読書を私はまったく信じておりません。  おそらく本の読み方が違うのでしょうね。  神は細部に宿ると言いますが、小説にせよ、エッセイにせよ、あるいは詩であっても、作品の命は細部で脈打つというのが翻訳四十年の、私の持論です。  あわてて読むと、細部

          本読み——近況。

          ノートの勧め(その4)——未来について。

           今回は、「備忘録」(メモ)としてのノートではないというところに焦点を当ててみましょう。 「備忘録としてのノート」の典型的な例は、学校の先生のする、いわゆる板書を書き写すためのノートでしょう。早い話が、試験対策の一つですね。端的に言って、「創造的なノート」の対極にあるものです。  ここで勧めているノートは記憶を補佐するためのものではありません。むしろ、何かを探すための補助手段と言うべきものでしょう。その探すべき何かは、すでにどこかにあった何かではなく、あなたがこれから生み出す

          ノートの勧め(その4)——未来について。

          ノートの勧め(その3)——余白について。

           結局、ここで言う「ノート」とは余白のことか、と思ったりもします。  もちろん、人によってノートをつける目的は様々です。取材ノートとか、料理ノートとか。でも、この場合のノートはメモと置き換えてもいい。  前回の投稿には「創造的なノート」というサブタイトルをつけました。メモというのは備忘録の一種、ヴァレリーがつけていたような「ノート」は、おそらく自分自身と対話するためのもので、彼はそのときの言語を「自我語」と呼んでいたほどです。公の場に発表する文章は、この「自我語」で考えたこと

          ノートの勧め(その3)——余白について。

          ノートの勧め(その2)——創造的なノート

          「ノートの勧め」の続きです。  軽い感じで書きはじめたのですが、ポール・ヴァレリーだのパスカル・キニャールだのの話をしだすと、にわかに文章が堅苦しくなってしまう。  そもそも、ポール・ヴァレリーって誰? と思う人もいるかもしれない。  娘には「夏目漱石みたいな人だよ」と超アバウトに説明したら、「あ、そうなんだ」という答え。  共通項は「国民作家」くらいしかないので、いかにもアバウト過ぎますが、くどくど説明しているとキリがない。関心がある人はウィキペディアを検索してみてくださ

          ノートの勧め(その2)——創造的なノート