見出し画像

フランスの女(その5)

 前回(フランスの女・抄—その4)は、第二章の終わりの場面——ルイとジャンヌが間借りしている大家のアンドレアス・ベレンスの死を悼む息子のマチアスがベートーヴェンの弦楽四重奏曲《ラズモフスキー三番》を電蓄で鳴らす場面——から書きはじめて、冒頭部のジャンヌが美しく着飾る場面に遡行するという形で書いてしまったために、ベルリンにおけるフランス駐留軍とソ連駐留軍の合同舞踏会でのジャンヌの怪しいほどの美しさとルイの異様なまでの嫉妬、そしてジャンヌの二度目の妊娠と出産——今度こそおれの子だとルイは喜ぶ——など、第二章の重要な場面がごっそり抜けている。
 とはいえ、ひとつひとつの場面をいちいち書き写していたら、いつまでたっても終わらない。「抄」が抄でなくなるので、ここではジャンヌの出産の場面——マチアスとジャンヌの宿命が接触、短絡し、火花を散らす最初の場面——だけを紹介することにしよう。
 ルイの大尉昇進を祝う内輪のパーティが自宅で開かれる。だが、出産を間近に控えていたジャンヌはこの祝いの席で破水してしまうのである。ルイは動顚する。自分の子・・・・が流産してしまうかもしれない。二階の大騒ぎに、大家のアンドレアス——この時点ではまだ生きている——と息子のマチアスも駆けつける。そして、マチアスの運転する車でジャンヌを病院に運ぶことになる。最寄りの病院といえば、イギリス占領地区にある病院しかない。車は検問で止まる。しかし、慌てて家を出てきたルイは身分証を持っていない。フランス駐留部隊の将校だと喚き立てても、検問のイギリス兵は首を縦に振らない。身分証もなく軍服も着ておらず、おまけに酔っている男を通すわけにはいかない。ルイはその場で車から降ろされ、マチアスだけが検問の通過を許される。

 車は灰燼に帰した夜のベルリンを走った。闇のなかに、ぼんやりと動く人影があった。家を失った人の影だった。ジャンヌの陣痛は興奮とショックのせいで、いっそう激しくなった。マチアスはヘッドライトに照らされた闇を無言で凝視していた。バックミラーに、もだえ苦しむジャンヌの顔が映っていた。車内はさながら分娩室と化していた。ジャンヌの荒々しいうめき声が充満し、運転しているマチアスまでが息苦しくなった。顔を真っ赤にしてうめいているジャンヌの顔はあやしく歪んでいた。マチアスはどうしていいかわからなかった。心臓が高鳴った。ジャンヌの苦しみがそのまま耳と毛穴を通じて浸透してくるようだった。ああ、この人は苦しんでいるときまで美しい。マチアスは不謹慎だと思いつつ、激しく快感をそそられていた。あられもなく髪を振り乱し、子宮から声を振り絞るようにして叫んでいるジャンヌ、そこに本当の彼女の姿がある。それまで遠巻きに彼女の美しさに見とれていただけのマチアスに、異常な心の揺れが訪れていた。この人は今、ぼくを求めている。できるなら、この胸に思い切り抱きしめてやりたい。マチアスは無意識のうちに右手をハンドルから離し、後部座席のジャンヌのほうに差し出していた。ルームミラーのなかでジャンヌとマチアスの視線が合った。ジャンヌのうめき声が一瞬止まった。ジャンヌはおそるおそるマチアスの手を握った。温かくしっとりとした手だった。不安と苦痛がその手のひらに吸い込まれていくようだった。ああ、マチアス。それまで気にもとめなかったこのドイツ人青年との距離が一瞬にして消えた。惑乱する頭のなかで、アンリと初めて会ったときのことがよみがえった。あの駅の医務室で、アンリは自分の手に顔を埋めて泣いた・・・・・・。ジャンヌはさらに強くマチアスの手を握った。そして、すべての不安と苦痛をマチアスに預けて、目を閉じた。マチアスはこの夜から激しい恋に落ちた。それはマチアスの遅い初恋だった。戦争で失われた青春が今彼のもとに訪れようとしていた。遅れてやってきた青春ほど狂おしいものはない。

 こうしてベルリンで生まれた子は、アントワーヌと名づけられた。この映画を支えているのは、このアントワーヌのいたいけな視線なのである。言うまでもなく、それはレジス・ヴァルニエ監督自身の目である。

 マチアスはジャンヌに手紙を書く。父の家を訪れ、二階に上がれば、そこにジャンヌがいて、その顔を見ることができるにもかかわらず。しかし、恋を知らずに成人した青年はどうしていいかわからなかったのである。厚かましい行動に出れば、愛する人に迷惑がかかるのではないか、嫌われるのではないか・・・・・・。
 彼は自分の母語ではないフランス語で書く。なぜならば、愛する人に愛を伝えるためには、愛する人の言葉でそれを伝えなければならないと思ったから。

 親愛なるジャンヌ・ミューレル様
 とつぜんこのような手紙を差し上げることをお許しください。
 あの夜のことがどうしても忘れられません。あなたのあの熱い手、あなたの苦しみ、あなたの美しさ、それがわたしの手に乗り移って以来、あなたのことばかり考えて暮らしてきました。
 いえ、あの夜からではありません。あなたたちが父の家に来て以来、わたしはずっとあなたのことを見つめていました。
 ナチスが政権を取ったとき、ドイツが戦争に負けたとき、私の青春は死にました。芸術に対するあこがれ、美しいものに対するあこがれ、それもまた死にました。死んだと思っていました。
 でも、そういうわたしの前にあなたが現れました。あなたの出現はわたしにとって試練でした。どれだけわたしの絶望が深いものかを試す試練でした。わたしは今、自分が絶望していないことを知っています。あなたがこの世に生きているからです。あなたがこの世に生きているかぎり、わたしの希望も生きています。
 わたしはあなたを愛しています。
 あなたにはすばらしいご主人とお子さんたちがいます。ご迷惑であることは十分承知しております。しかし、愛には是非がありません。愛はただ求めます。
今、わたしが望んでいるのは、一度だけ、二人きりでお話がしたいということだけです。連絡先は次のとおりです。
 どうか一度だけ、わたしの希望をかなえてください。
 
マチアス・ベレンス

 映画のなかにマチアスがジャンヌに手紙を書くシーンはある。郵便で送られてきたその手紙をジャンヌが手に取って読むシーンもある。それは確かだ。しかし、文面がどういうものであったか、映画ではどのように扱われていたか——つまり、ナレーションのかたちか、字幕のかたちか、あるいは手紙そのものが映像になっていたか——、もう書いた本人にはわからない。読者の判断と想像に委ねよう。
 ジャンヌはこの手紙を読んで、当惑する。そもそも彼女は書かれた言葉に動かされることはあまりなく、むしろ声、手の動き、そこに言葉を感じる女だ。しかし、あの夜、車のなかで陣痛に苦しむ自分に向かって差し出された手の感触を思い出すと、彼女の心は不思議と揺れる。

あのとき、たしかに二人は結ばれたという実感が残っていた。だが、あまりに一瞬の出来事だったので、まるで夢のような、自分が経験したことではないような、違和感のある記憶だった。あのとき出産したのは、まぎれもなくルイの子供であるはずなのに、あの夜の騒動、興奮、陣痛の烈しさ、そしてマチアスから差し伸べられた熱い手、短い時間のなかで完結した一連の出来事が、マチアスと出産を結びつけてしまうのだった。ジャンヌは手紙を読みながら、またあの手が自分に差し出されていると感じ、アントワーヌの本当の父親が名乗り出てきたような奇妙な困惑をおぼえた。

 ジャンヌは困惑を抱えたまま、返事を書くことができない。返事を書くことをためらう。そもそも何を書けばいいのか、返事を書くことになんの意味があるのか、当惑したまま、四、五日が経つとまた手紙が来た。やはり返事を書かないまま、さらにまた四、五日すると三通目の手紙が届く。もうこれ以上、平静を保つ自信がない、と。ジャンヌの心は決まる。よし、会おう。

 戦後という時間はとてつもない速さで流れていく。戦時中と終戦直後は結束していた連合国にひび割れが生じる。東西冷戦の時代が始まる。ソ連はベルリン封鎖という強硬手段に打って出る。ベルリンは東ドイツのなかの陸の孤島と化す。アメリカはこの措置に対抗するためにすべての生活物資を空路でベルリンの西側に届けるという作戦を決行する。いわゆる「空中の橋」である。
 その日、ベルリンの商工会議所では、ソ連の経済封鎖に抗するための経済人の決起集会が開かれた。演壇に立っているのは、若手の経済人を代表するマチアス。ジャンヌはその集会に何の前ぶれもなく、出向いていったのである。マチアスに会うために、だが彼の住むアパートを訪れるのは避けた。なぜならば、それは別れの挨拶だったから。集会が終わると、二人は会議所前のカフェで落ち合った。
 「あなたの手紙、何度も読み返したわ。あんなにきれいな手紙、初めて・・・・・・。あの手紙に書いてあること、信じていいのね」
 マチアスはうなずく。
 「それなら、お願いがあるの。もう手紙を書かないで、もうわたしに会おうとしないで・・・・・・。今の落ち着いた、幸せな生活を壊したくないの」
 二人は見つめ合う。二人とも目をそらさない。マチアスはジャンヌの誠実に感動していた。愛を拒否されているはずなのに、受け止めてもらっているいるような気がした。マチアスはジャンヌの言葉に絶望しなかった。希望とは言わないまでも、勇気のようなものが与えられたと感じた。そして静かに、毅然として答える。
 「でも、あなたを思う心を殺すことはできない。あなたを愛する心を殺すことはできない」
 ジャンヌは絶句する。絶句したまま、二人は別れた。マチアスはこの絶句のなかに一縷の望みを託す。

 ジャンヌとマチアスの別れとともに、しかし、ルイとジャンヌの家族も、四年間の蜜月を過ごしたベルリンを離れていかなければならなくなる。第一次インドシナ戦争が勃発する。旧宗主国のフランスに対してホーチミンの南ベトナム臨時政府が徹底抗戦を宣言したのである。戦争は泥沼化し、ドイツに駐留しているフランス軍の一部もインドシナに派遣されることになった。ルイの名もその派遣リストに含まれていた。
 まさかジャンヌと三人の子供を戦地に同行させるわけにはいかない。帰す場所はナンシーしかなかった。その知らせを聞いて、ジャンヌは動揺し、動顚し、恐怖さえおぼえる。またあのナンシーに戻るなんて、夜逃げ同然に立ち去ってきた故郷の町ではないか。
 悶々として眠れない夜が白みはじめる。階下から大音量で鳴り響く音楽が聞こえてくる。こんな早朝に何ごとかとジャンヌは階下に降りていく。薄暗い居間には誰もいない。寝室のドアが開いていて、明かりが漏れている。中に入っていくと、棺が置いてある。その脇にマチアスがひざまずいている。
 「明け方に父が死んだのです」
ジャンヌはまたもや絶句する。自分たちがベルリンを発とうとしているときに、大家であるアンドレアスもまた逝ってしまうとは・・・・・・。
 ルイがジャンヌを追って階下に降りてくる。マチアスは音楽を止める。ジャンヌはルイの胸に顔を埋めて泣いている。
 父が死に、父が好きだったラズモフスキーが鳴り止み、抱き合う夫婦の姿を見て、マチアスはすべての希望が消えたと感じる。もう手紙を書かないで、もう会おうとしないでと言われても消えなかった希望が今、ついえたと思う。

フランス人のジャンヌはいつかはベルリンを去る、老齢の父もいつかは死ぬ、そんな当たり前のことがマチアスの念頭にはなかった。その日を想像する自分を無意識のうちに抑えこんでいた。それほどマチアスにとっては、ジャンヌの存在と父の存在はかけがえのないものだった。それを今、マチアスは同時に失った。抱き合うルイとジャンヌを見つめながら、彼の視界は暗く陰った。

(つづく)

(補足:ここに引用されているマチアスの手紙は、訳者が映画の場面から想像した文面である。今は手元にDVDがあるのではっきりと確かめることができる。映画は映像と俳優の演技だけで、その背後にあるものを観客に想像させることができる。この想像こそが映画鑑賞の醍醐味だと言える。だが、映画がその表面にとどめた映像をなぞるだけでは文章表現——すなわち小説——にはならない。いわば「行間」を読む作業こそが、すべての芸術ジャンルに共通した鑑賞の醍醐味なのである。音楽も美術も文学もすべてにそれが当てはまる。だが、同時にそこには映画のノヴェライズという特殊なジャンルの限界もある。映画が説明を排除しようとしたところをノヴェライズはどうしても説明してしまうからである。語りすぎると言ってもいい。それは翻訳にも当てはまる。翻訳は説明ではない。しかし、ある言語をそのまま他の言語に置き換えること——俗に言う「直訳」——は不可能なのである。book と聞けば、日本人なら反射的に「本」という単語を思い浮かべるだろう。でも、アメリカ人やイギリス人がそうだとは限らない。彼らにとっては「帳簿」も book だし、そこから席や部屋を予約するときにbookする、すなわち予約台帳に書き入れてもらうという意味が生じる。翻訳者が book という単語に出会って、それを「本」と訳すか、「予約」と訳すかの選択はすでに文脈の解釈によるものであり、それは説明なのである。ただし、これをもって自分のノヴェライズの正当化をしようというのではありません。念の為)

この記事が参加している募集

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?