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【 小説 】「 春嵐 」 #4 ( 全文無料 )( 投げ銭スタイル )

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第3章 松田吾郎の結婚




船山産婦人科クリニックの午後の診療が終わった。
節子が事務室で咲子さんの実家からのお土産の和菓子をいただいていると
院長が話しかけてきた。
「 九龍会病院の松田先生が結婚するらしいよ 」
外来の受付には人影はない。
看護婦たちは2階の詰所に集まっている。
( 何でこんな場所でそんな話を持ち出すの? )
節子が関心のないフリをしてコーヒーをすすっていると、院長が、
「松田は、多川さんと結婚するのかと思っていたよ」と、ドキッとする言葉を被せてきた。節子は、
「プロポーズはされなかった」と、思わず本当のことを口にした。
「あいつ、九龍会病院の産婦人科部長のポストと抱き合わせで教授の娘を
 押しつけられたらしい」
( そういうこと…… )
船山院長は節子の気持ちを見透かしたかのように、
「松田は逃げ損なったンだよ。教授の投げた網に絡み取られたという
ところか。オレをはじめ皆はうまく逃げたがね」
そう言えば、船山先生は早くから婚約したことを公表していた。
2人ほどバタバタとあわてて結婚した医局員がいた。

九龍会病院の万里 海院長との急な面談をしたことを、
松田が言いにくそうにした裏には、言いにくい事情があったのだ。
節子は、松田が言いよどんだ訳が少しわかったような気がした。
しかし、なぜ、松田が淋しい後ろ姿を見せて去っていったのか、
もう1つ合点がいかない。

( 産科の現場で共に働く助産婦とわりない仲になって、
    結婚もしないでずるずると関係を続けた。
    男は美味しい話がくるとあっさり乗り換えて
    女をぼろ屑のように捨て去った。そうではないの? )

( よくある男と女の関係。でも、なぜうれしそうにしないの?
  ドライにもっと喜んでみせたらよかったのに。
    辛そうにしたのは見せかけだけだったの? )

節子は、コーヒーカップを持ったまま
松田が借家を解約すると告げた日のことを思い出していた。
( 勝手にして! )
なぜかフツフツと怒りがこみ上げてくる。
松田のことを忘れてはいない。
船山院長は、しばらくコーヒーをすすっていたが、
松田の結婚相手のことに話題を移した。
「韮山教授の娘は、草鞋わらじだとさ」と、呟いた。
「わらじ?」
何のことかわからない。
醜女しこめということさ」
馬面で  使い古し履き古し の草鞋のような顔をしているということ。
何ともキツイ言い方である。
「しかも、そのお嬢さん、30歳ぐらいで一度、嫁いでいる。
 1年ぐらいで実家に戻ったらしいけど」
「今、一体いくつ?」と、節子は思わず訊いた。
松田が哀れに思えた。
「42歳だよ」
船山院長も憮然としている。

松田吾郎と韮山教授の娘の結婚披露宴に、船山夫妻は招待された。
安定期に入っていることで咲子さん共々出席することにしたようである。
大学の産婦人科教室の支援なくしては船山産婦人科クリニックの運営は
うまくいかない。付き合いである。

節子が、披露宴から帰宅した咲子さんの様子を見にいくと
院長にすすめられて咲子さんは寝室のベッドで休んでいた。
元気である。
枕元に船山院長が椅子を引き寄せて座っていた。
「一生に一度だけ、誰もが学業成績優秀で、美男美女となる! 」
船山院長は、吐き捨てるようにいった。
披露宴の祝辞のことを言っているようだ。
( 美男美女? わらじではなかったのか )
船山院長は、教授の娘についてはそれ以上触れず話を変えた。

「それよりか、病理学教室の山下先生は韮山教授の次男坊だった」
「え?」
節子は思わず大きな声を出した。
看護学校時代に病理学を講義に来ていた山下蒔郎じろう先生のことである。
「彼が、韮山家のテーブル席に座っていたいたので驚いたね」
( 何ということ!…… )
節子は、船山院長とは違うことで驚いた。
思わず声を出してしまったが、幸い、船山院長は節子の驚きに
頓着しなかった。

山下先生は、色白で眉目秀麗びもくしゅうれい
優しい話し方と低い声、温和な人柄で看護学生に人気があった。
彼がアメリカに研修に行くときは、たくさんの看護学生が長崎駅まで見送りに行ったものである。

その時、山下先生の姉なる人も見送りに来ていた。
「姉です」と山下先生は、見送りの学生達に紹介してくれた。
その時の節子の衝撃は大きかった。
小学校4年の時の学級担任、林 華子先生その人だったからである。
もちろん、林先生本人は、節子のことなど覚えてはいなかった。

節子の担任として記憶にある林先生は、大変おしゃれな人であった。
戦後の暮らし向きがまだ逼迫していた時代であったが、
林先生は、毎日違うスーツを着て学校に出勤した。
服は上等の生地で丁寧に仕立てられていた。
節子の母親が、当時流行りの洋裁を取り組んでいたので
生地とかミシンなどを日頃よく目にしていた。
いつの間にか節子は、洋服の仕立て方に詳しくなっていた。
林先生の着ている、別世界から来たようなスーツに節子は目を奪われた。
触りたくなるような柔らかい風合いの生地で、
それは、鴇色ときいろや浅緑の色と毎日変わった。

林先生の頭髪は赤茶けて細く、頭の地肌が透かし見えた。
その薄毛の頭髪を丁寧に手入れしていた。右側の毛は跳ねるのかキラリと光る鬢留びんどめをしていた。自分の髪にこだわりがあるので節子の髪が気になるらしく、林先生はしばしば、節子の頭髪を引っ張りに来た。
つかつかと節子の席に歩み寄って、
「ちゃんと髪を洗いなさい、臭い! 」
と罵りながら、節子の天辺の髪をひっぱったのだ。

当時、戦後の焼け跡に建てられた応急住宅には風呂がなかった。
節子は、妹と弟を連れて週1回、母親に言われて、近くの銭湯にいった。
多川家は貧乏所帯で、母親は風呂の代金を出し惜しみした。
風呂行きは10日振りということも珍しくなかった。
さらに当時は、洗髪には料金が加算される仕組みで、
「髪を洗います」と番台に加算した料金を支払うと、
領収書代わりに大型の洗面器が渡された。
追加料金は10円かそこらの代金であった。
女性の長い髪の洗髪が対象であった。
入浴を終えて出ていく時、濡れた髪をめぐって、
「ウッカリ、髪に湯をかけてしまった」などと弁解して、
番台で揉める風景がしばしば目撃された。女子おなごたちは、たった10円の出費を惜しんで誤魔化そうとした。

夏になると、たらいの行水になった。
髪は台所の流司ながしで洗った。シャンプーはない。
布海苔を使った。
大方の同級生も同じような暮らしぶりであるはずなのに
なぜか林先生は、節子を狙い撃ちにしていた。
節子は、久しく洗髪してない膨れ上がった髪を持て余していた。
ボサボサの髪に付ける椿油もなかった。
髪の思い出が強烈で、林先生の容貌は全く覚えていない。
美人ではなかったようである。
が、音楽の時間に歌う林先生の声は美しく、特に高音は伸びやかで
聞き惚れた記憶がある。メゾソプラノであった。

小学生時代の、ある時のチョッピリ辛かった記憶は
成長にともない忘れるともなく忘れている。
それなのに、思いがけず、二度、三度と引っ掛かりが生じて、辛い体験が浮かび上がることになった。

山下先生から長崎駅頭えきとう
「姉です」と紹介された時の驚き。

そして、船山院長の話から、松田の妻になる人が、山下先生の姉様であるとわかった時の衝撃。

それらは重なり合って節子の記憶をいやが上にも暴き出す。
その鬱屈した苦しい思いは誰にも言えない。

どういう巡り合わせか、運命のいたずらか
人の世には時として不思議な邂逅かいこうがある。
合縁奇縁もある。
節子は、松田吾郎と林華子先生との出会いは、避けられない巡り会いであったとして、自分の辛い思いをしまい込むことにした。


船山院長は、山下先生の話を続けた。
「松田と山下とオレは、県立高校の同級生だけど、
 山下は、小さい頃、母方の親戚の家に養子に出されていたンだと。
 知らなかったなあ」

( 高校で同級生、大学医学部で6年間共に学び
 その後、松田先生と船山先生は産婦人科教室に入局。  
 長い付き合いではないか。
 船山院長は、松田先生と私のことを何もかも承知しているんだ…… )

船山産婦人科クリニックは、院長のソフトな人当たりが好評で、受診者が増え、アッという間に6ヶ月先まで分娩予約が入った。

「多川さんのお陰だよ。ありがとう」
と船山院長は節子に頭を下げた。
節子は、普通に妊産婦に接していると思っていたが
「 多川さんには何でも話ができる、頼りにできる 」
という評判だよ。  
「 うれしいね 」
お世辞ではないらしい。

実際の分娩を数例取り扱うと更に評判が広がり 遠方からの受診者も増えた。 入院中の食事も評判になった。
当時の山村部の暮らしは、産後床上げするまでの食事は旧来のまま実に質素なものであった。おかゆと梅干し、味噌汁の3点セットである。 もっとも、米が品薄の時代で、おかゆでも贅沢であった。梅干しも貴重食品であった。 おおかたの暮らしでは、主食は雑穀で、配給の外米を入れて、やっと主食らしくなったものである。
船山産婦人科クリニックでお産をすると
仕出屋川魚屋の特注の食事が提供される。
豪華ではないが、母乳の出がよくなるように考えられた献立で、美味い。
しかも、当時で言う、上げ膳、据え膳の待遇である。

もう1つ評判がよかったのが、開業助産婦市川さんの手際の良さと人当たりの暖かさがあった。開業助産婦を長年やってきた人の対応は神業に近い。
新生児の沐浴、褥婦の手当など見とれるほどの手技である。
流れるように素早く、できあがりは完璧である。
産婦は、産褥処置後の快適さに満足し
「 ありがう 」と口々に感謝した。

節子は、当初、市川さんの沐浴の手際を学び、一緒に産婦の見回りにいき、その手技を見習うことに励んだ。が、熟練の技にはそう簡単には近づけないとわかった。

市川さんは、
「 たくさんのお産を介助させていただき、新生児の湯浴みを続けていると、誰でも上手になります 」
と謙遜した。
市川さんは、20歳の時、産婆講習所を終了して
町の助産所の内弟子に入った。
その助産所の師匠の人柄と腕前に大きな影響を受けたと語った。

もう1人、評判を呼んだのが遠藤さんの存在である。

色々な事情で、産後、家族が毎日、面会に来られないことがある。
そんなとき、遠藤さんは、さりげなく身の回りの用事を引き受け
不安を抱く産婦の話に耳を傾けた。毎日、明るく声を掛けて回った。

船山院長と節子は、妊産婦ヘの専門的な心身の観察と相談を怠ることは
なかったが、市川さんの存在は特異なものであった。
他の産婦人科医院にはない役目で、
院長は、おっかさん代わり と言った。  

咲子さんは、予定日の3日前の朝に陣痛が来て
夕方には、無事男児を産み落とした。
院長をはじめ関係者は安堵した。

3日間、クリニックの産室に滞在し
その後、ハツさんの待つ後方の自宅へ移った。

お産の予約が立て込んでいたわけではないが、
船田院長は、常々、7日間の入院が本当に必要かと検討中であった。
正常分娩なら3日の入院で十分ではないかと考えていた。

妻に対してそれを試みたということであった。

船山院長は、分娩後のシャワーも、キリスト教系の病院では既に実施していると情報をキャッチしていた。
無痛分娩、分娩時の産道への外科的な処置など医師としての検討事項は
たくさんあった。
院長は、節子の意見をひとつひとつ丁寧に聞いた。

節子は、お産は自然なものとして女性の生み出す力を最大限生かしたい
との思いを院長に伝え続けた。
咲子さんには、分娩時の呼吸法をあらかじめ伝えていた。
娩出時のいきみと呼吸の抜き方である。
船山院長は、妻のお産を自然の経過に任せる節子の対応を支持した。
節子は、かねての指導に従って咲子さんに声を掛け共に頑張って
出産までを支援した。
安産であった。  

お七夜に、咲子さんのお里から両親が出てきた。 若い娘さんを伴っていた。





次回 「 春嵐 #5 」 第4章 船山院長と咲子夫妻に男児誕生   へ続く……





著:田嶋 静  Tajima Shizuka
【オリジナル小説】「春嵐 #4  第3章 松田吾郎の結婚 【終わり】

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