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序章 ヒヤリ体験⑴

時は、平成の終わり。
次の年号はどうなるか、あれこれと取り沙汰されていた。
石川県のイチョウの暮らしは、何ごともない。
ごく平凡な日々である。

ところがある日、イチョウはヒヤリとする出来事に遭遇した。
晩春の黄昏時、イチョウは、電動自転車に買い物の品を満載して変則へんそく三叉路さんさろで信号待ちをしていた。
本線は平素、自動車の往来が激しいが、その時刻、車の姿は途絶えていた。右から入って来る道路は狭く、普段、滅多に車は通らない。
人影も絶えていた。

目の前の信号が、青に変わった。
イチョウは、グイとペダルを踏み込んだ。
その途端、突然右側から猛スピードで車が飛び出して来た。
イチョウは、力一杯、急ブレーキをかけた。
車は、電動自転車の前輪をかすめるように走り去った。

かろうじて衝突は回避された。
買い物の品で全体が重くなっていなかったら、踏みだしのスピードは強い。自動車と接触していたであろう。
(婆さんの自転車と見て、「行ける」と思ってスピードを上げたのか。こっちは、電動やで。阿呆タンが……)と、内心、イチョウは、毒づいた。
思いがけないヒヤリ体験に、イチョウは、電動自転車にまたがったまま、しばらく動くことが出来なかった。

ヒヤリ体験からしばらくして、イチョウは、10年間愛用していた電動自転車を手放すことにした。今回はかろうじて衝突を避けることが出来たが、とっさの危機回避が出来ない年齢になったと自覚した。

それから間もなく、イチョウは、スイデンと共に公民館主催のバス旅行に参加した。
その旅で、イチョウは、更なる自分の老いを体験することになった。

バス旅行のメインテーマは、水郷巡りである。
道路脇の広い水路には、たくさんの錦鯉が群れていた。
スイデンは、クビからカメラをぶらさげて、熱心に鯉の動きを追いかけた。何度かシャッターを切った。
水路に沿って進むと、古い屋敷群が現れた。

ガイドは、そのうちの一軒に、一行を案内した。
そこでは、靴を脱いで上がらなければならない。
土間に簀の子すのこが敷いてある。
しかし、どこにも掴まる所がない。
バス旅行の参加者は、スイスイと靴を脱いで座敷へと上がっていった。
イチョウは、ちょっと迷ったが、「ままよ」とばかり、片足立ちで靴を脱いだ。
右足の靴はスンナリ脱ぐことが出来たが、左足の靴が引っかかって脱げない。イチョウは、片足立ちのまま、右足の爪先で左の靴の踵を押し下げた。
バランスを崩して、ドスンと簀の子すのこの上に尻餅をついた。
「ズン!」と、腰に、不愉快な衝撃があった。
イチョウは、顔をしかめたまま、しばらく立ち上がることが出来なかった。

バス旅行の一行が屋敷見学を済ませて玄関に出て来た。
上がり口で休んでいるイチョウを見て、スイデンは不思議そうにたずねた。
「どうしたン?」
どうもこうも、イチョウは、ションボリ。
イチョウは、その後の見学はやめて、バスの中で待機した。

歩くことは出来るが背部の鈍痛が消えない。
バス旅行の翌日、イチョウは、キトキト病院へ行った。
この病院は、以前、受診したことがある。
掘炬燵から立ち上がる際に、脚を抜き出し損ない右膝に体全部をのせてしまった。その時、ギクリと膝が悲鳴を上げた。
膝関節内に血が溜まっていた。
それ以来、キトキト病院は何かにつけてイチョウが頼りにしている病院である。

11番目の胸椎を圧迫骨折していた。
キトキト院長は、
「骨折部位が腰椎でしたら、寝たきりになったかもしれない」と言った。
胸椎骨折とはいえ、影響は大きい。
イチョウは、胸に軟コルセットを着ける暮らしとなった。

3ヶ月ぐらいして、コルセットは外れた。
背部の痛みはなくなったが、イチョウは外出時にスイデンのこうもり傘を持ち歩くようになった。
イチョウは、男物の傘が、何となく頼りになるような気持ちであった。
が、やがて、それを杖代わりにしても
ご近所さんとの立ち話が苦痛になっていった。

ある日、傘の代わりに、スイデンが持っている杖を使ってみると傘よりもっと力強いと気がついた。スイデンは3本の杖を持っていた。
そのうちの丸い取っ手の杖を1つ譲り受けた。

→(小説)笈の花かご #3  序章 ヒヤリ体験⑵ へ続く










(小説)笈の花かご #2  序章 ヒヤリ体験⑴
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2023年10月21日#1 連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
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