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ゲーム制作のための文学(12) デカメロン、真理ではなく人間について考えてみる。

今月の末、5月29日に開催される文学フリマ東京に向けて、『ゲーム制作のための文学』を制作中です。

今日はボッカチオのデカメロンに関する部分を掲載します。

『ゲーム制作のための文学』は、TRPG制作日記として投稿していた記事の文学部分をまとめて同人誌にしたものです。

ダンテ、ボッカチオ、ラブレー、セルバンテス、バニヤンの順番で進めていく予定です。

『ゲーム制作のための文学』『

第十一章 デカメロン(ボッカチオ)

 高いところを目指してぐいぐいと登っていく人もいれば、もっと身近な生活を大切にして小さな気づきを作品の込める人もいます。前者はダンテ、彼の作品は『神曲』であり、主人公は詩人と淑女に導かれて、ぐいぐいと地獄から天国によじ登っていきます。一方、同じイタリアの作家でも、ボッカチオは全く異なる戦略を採用しました。
 彼の代表作は『デカメロン』。
 ダンテが神曲であるならば、ボッカチオは人間を描く人曲です。今日は『デカメロン』について書いていきます。

 ボッカチオは一三一三年にイタリアで生まれた作家です。対になるイタリアのダンテが一二六五年に生まれたので、ちょうど彼と入れ替わるようにして活動を始めたことになります。ダンテの『神曲』は地獄から始まります。
 主人公は詩人に出会い、詩人の導きで地獄巡りを行います。そして、地獄、煉獄と上に昇り天国に至ります。
 ダンテの物語には普遍的な構造があります。
 そして、物語構造そのものも普遍性を目指しており、そして普遍的真理を獲得したところで物語は終了します。
 そこには正しい人生は一つであり、それだけではなく正しい人生に至る道も一本であるという信念があります。さらに七つの大罪、嫉妬や強欲、性愛などは乗り越えるべき人間の罪として考えられています。
 私たちは動物的な存在から、それを排除して魂を軽くすることにより正しい人間になり天国に至るのです。恋愛や結婚は悪です。

 一方、『デカメロン』は全体の構造から異なっています。
 ダンテの『神曲』が地獄、煉獄、天国と美しい三部構成になっているのとは対照的に、ボッカチオの『デカメロン』は若者十名が、十日間に、それぞれ自分の物語を語るという構造になっています。
 しかも、特定の目的で構成されているというよりは、それぞれの登場人物が面白いと思った物語を寄せ集めたような構造です。そればかりか、物語内容も暇つぶしのために話を行うという設定です。ダンテとは異なり、ボッカチオの『デカメロン』は魂の危機から出発するわけではありません。
 イタリアでペストが流行したので逃げる。
 逃げている間に暇なので、若者達が集まり話をする。しかも、男性三人、女性七人と女性が多く含まれています。この女性の比率が高いことは重要で、それはダンテの『神曲』に登場する人物に男性が多いことと対比的です。

 ダンテが一人の人物が地獄から天国に昇る過程を描いているならば、ボッカチオはそれぞれの人物が自分と自分の物語を深めていく物語です。
 主人公は語り手である十人がいて、テーマが決められていて、そのテーマに対して普遍的真理ではなくて自分が面白いと思った物語を語ります。まるで日常生活のように、そこにはたくさんの声があります。
 ダンテが天国という一つの目的に向かって進むのであれば、ボッカチオはペストという現実的な脅威から逃げるために、それぞれ登場人物達が自分達の人生をそれぞれの方向に旅立っていく印象です。
 また『神曲』における、主人公、詩人、淑女は物語が存在していて、そこから役割が存在しているように思えます。

 ダンテの叙事詩『神曲』とは対照的に、すなわち物語の役割こそがキャタクターであるのとは対照的に、ボッカチオの物語『デカメロン』はそれぞれの登場人物の個性がキャタクターになっています。
 主題や物語よりも、キャタクターが先にあるのです。
 叙事詩『神曲』の神がイエス・キリストであるのにたいして、『デカメロン』で称えられる神は愛の神「アモーレ」です。ローマ教皇の膝元であるにもかかわらず、遺憾なことにボッカチオは多神教のようです。
 しかも驚くべきことに、はじめにこの本ではペストに関する深刻な問題は扱いませんと書いてあります。
 物語『デカメロン』はたとえ世俗的であっても高尚な問題を扱う本ではないのです。
 ダンテが神学者であるならば、ボッカチオは人文学者です。ここで私たちは神や普遍的真理ではなく、まさに人間をテーマにした文学に遭遇することになります。だからこそ、『デカメロン』は人曲と言われます。
 真理ではなくて、人間を描く。神の視点から書くのではなく、人間の視点から書く。唯一の正しい大きな物語ではなく、多様な小さな物語を集めて一つの作品としてまとめる。一つの声から多様な声の作品にする。
 それがボッカチオの文学です。

 普遍的とはどのような意味でしょう。普遍的真理とは、あらゆる時代、あらゆる国、そしてあらゆる人々が共有している何かです。
 しかし、それを追求することだけが文学ではありません。
 ボッカチオは文学とは普遍的真理を求めるものではなく、まさに人間を描くものだとしたところに現代に至る道を開きました。

 七百年後の二十世紀において、第二次世界大戦後、ダンテとボッカチオの対立を社会主義リアリズムとポストモダニズムに、大きな物語と小さな物語に見ることができます。
 社会主義リアリズムにおいて、私たちは社会の現実(資本主義、煉獄)を認識して、それを理解してダンテのように社会主義(天国)に昇っていかなくてはなりません。ポストモダニズムにおいては、あらゆる文化活動は社会主義を実現するために存在するという考え方は危険だと判断します。
 ただ「社会主義は正義」という結論を予め決めておくのではなくて、また神の視点や普遍的な視点や歴史の視点で描くのではなくて、「私には世界はどのように見えるのか」、歴史の必然ではなく自分だけの小さな物語を追求するのがポストモダニズムです。そこには社会主義や自由主義などの大きな物語への不信があります。
 
 同じイタリア人文学者で、似た時代に生きたダンテとボッカチオは私たちに分かりやすい文学の態度を見せてくれます。文学とは普遍的真理を求めることなのか、それとも人間を描くことなのかは難しい問いのように思えます。
 そして、この二つの方向の鮮明な例がダンテとボッカチオです。

直感的には、普遍的真理に昇ることと、人間存在を豊かに描くことの均衡を取ることが重要に思えます。
 物語と世界観がしっかりしていることが重要なのか、それともキャタクターが魅力的であることが重要なのか。
 両方が必要です。大切なのはバランスに思えます。

 ところが、これらの問題はまったく関係のない方向から不気味に解決されました。ラブレーが登場したのです。

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同人誌『ゲーム制作のための文学』は、文学フリマ東京で500円での販売を予定しています。

欲しい方は、是非文学フリマ東京にお越しくださいませ。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

これからもゲーム制作に役立つ情報を提供していきます。フォローしていただけると嬉しいです。

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