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ゲーム制作のための文学(6) 源氏物語、古典を学ぶ意味はあるのか?

現在、2022年5月29日に開催される文学フリマ東京に向けて、『ゲーム制作のための文学』を制作中です。

この同人誌は文学作品を例にして、ゲーム制作に役立つかもしれないと思われる文学の知識を披露していきます。

私は文学史や文学理論の教授ではありません。なので私独自の見解を書くというよりは、できるだけ多くのテキストで常識となっているようなことを書きたいと思っています。

今日は第五章、源氏物語に関する章を掲載します。

主な参考文献は、原岡文子先生の『『源氏物語』に仕掛けられた謎「若紫」からのメッセージ』です。

もっとも、他の本の内容も混ぜていますので、ここで書いてあることは原岡先生の思想ではありません(先生に責任はありません)。


以下、本文です。

『ゲーム制作のための文学』『

第五章 源氏物語

 古典を読むことに意味はあるのか、という疑問を抱く人は少なくないと思います。それよりも仕事に必要なビジネス文章、そして福祉制度の利用の仕方などを学校で教えた方が将来の役に立ついう議論にはそれなりの妥当性があります。
 また、私たちのなかには文学という単語を意識することで、夏目漱石を読むことを良いこととして、推理小説や空想科学小説、アニメやデジタルゲームなどと世界観を共有するライトノベルを読むことを罪深いことだと考える人も多いように思われます。
 ここで問題になるのは時間です。
 私たちの人生は限られています。そして、一度しかありません。何かをすることは何かをしないことを選択することです。私たちが何かをしているときには、必ず私たちは別の何かをしていません。
 そのため、古典を読むことに意味があるかという問いは、ビジネス文章、誰かに何かを伝える能力や、貧困に陥ったときに助かるための知識、生活のために必要な知識を犠牲にすることに意味があるのか、好きな小説を我慢してまで、一度しかない人生を興味がないことに費やすことに意味があるのかという問いと同じです。
 仕事で必要な能力を犠牲にして、楽しめる人生を犠牲にして、自分を不幸にするために全力を尽くす行為。
 それを称えるなど、まさに悪の宗教という感じです。
 以上の議論を前提にして、『源氏物語』を例に、今日は古典に触れることの意味について考えて行きましょう。
 古典を読むことに、学ぶことに意味はあるのでしょうか?

さて、紫式部の作とされる『源氏物語』は、平安時代中期に書かれた恋愛物語です。
 この物語は皇子である光源氏の誕生から始まります。彼は天皇の御子という高貴な血筋と美貌と教養に恵まれた男性で、数多くの女性と恋愛をします。そして、彼の娘は皇后となり孫が天皇になるのです。
 源氏物語には二つの流れがあるといわれています。一つ目は、紫の上と明石の君を軸とした新しい天皇誕生の長編物語。二つ目は、この二人の女性の周辺に存在している多様な女性達の短編物語です。
 一つ目の流れは以下のように展開します。
 失恋した光源氏は、心を慰めるために旅に出ます。北山に逃げます。
 そして、光源氏は紫の上と北山で運命的な出会いをします。紫の上は皇女であり、完璧な女性として描かれます。
 一方、明石の君とは明石で出会います。彼女は美しいが身分は低く、そのため紫の上とは異なり十分な教養には恵まれていません。
 明石の君は光源氏に愛されますが、紫の上は面白くありません。そのため身分が高く教養にも恵まれた紫の上は明石の君をいじめます。明石の君に娘が生まれると、それを自分のものにして明石の君を追い出します。
 しかし、時が経ち、明石の君の娘、明石の姫君を皇后にするために紫の上は協力者を必要とするようになります。そこで明石の君は呼ばれます。二人は仲良しになり、そして政権奪取の戦いをはじめます。
 日本書紀、あるいは古事記を読んだ後に源氏物語を読むと、私たちは直ちに山幸彦と海幸彦の物語を思い浮かべるでしょう。
 山幸彦と海幸彦は、天照大神の孫、瓊瓊杵尊の二人の息子の物語です。この物語においては山幸彦(紫の上)が海幸彦(明石の君)から釣り針(娘)を奪い、そのことにより山幸彦が海神の娘と結ばれます。そして、山幸彦の孫が、初代天皇である神武天皇となります。これは天皇誕生の物語です。
 性別が逆転しており、また最終的には海幸彦である明石の君が国母となる点は日本書紀とは異なりますが、北山(山)と明石(海)、そして物語の流れを見る限り明らかに源氏物語は日本書紀を踏襲しています。
 日本書紀が天皇誕生の物語であるように、源氏物語もまた天皇誕生の物語なのです。
 紫式部と日本書紀の関係は有名で、紫式部は漢文を読めたとされ、女性に生まれたことが惜しまれるほど日本書紀に精通していたようです。当時は女性であることは、学問の世界で今以上に不利でした。
 さて、私たちは日本語という言葉を使い、また日本書紀や古事記などを日本文学の原点と考えることが多いですが、日本書紀も古事記も、そして多くの日本文学は漢文、すなわち中国語で書かれています
 漢文の授業を思い出せば分かると思いますが、中国語の順番を入れ換えて助詞を補うと日本語になります。助詞が滅茶苦茶な、そして順番がめちゃくちゃな日本語がそれなりに読めるのは日本語は助詞がなくても意味が伝わるような言語であり、中国語の正しい順番を変えているだけなので文法が順番が依存しないからです。

私、山、行った。
私は山へ行った。
私、山に行ったけど。
山へ私は行った。
私行山。

 読んでみれば分かりますが、動詞が最後に来れば日本語として読むことができます。昔は主語は動詞の前に来るのが美しい日本語とされていましたが、「私は山に行った」は十分に正しい日本語として読めます。

源氏物語が日本文学において決定的に重要な点は二点です。一点目は馴染みのない古典を現代を舞台にして作り直したこと。
 二十世紀のモダニズム作家、ジョイスは『ユリシーズ』で、現代を舞台にホメロスの『オデュッセイア』を書き直しました。
 また、シェイクスピアの戯曲も、そしてワーグナーのオペラ『ニーベルングの指輪』も古典を現代的に焼き直しています。
 古いが、しかし重要な考え方が含まれている古典を、常に現代を舞台に新しく創造し直すというのは紫式部の文学の戦略であり、そしてこの戦略は現代においても重要です。
 紫式部は古典を参考にしながら、作品自体を古典をベースにして、そして現代に合わない感性は削除して、また舞台と人間は現代の最先端の流行を取り入れることをはじめました。彼女の戦略は能楽や文楽、歌舞伎という芸能にも内容だけではなく、その思想も受け継がれており日本文学の特徴となっています。
 模倣としての文学。あるいは、替え歌としての文学。
 それが紫式部が意識して始めた一つ目の戦略です。彼女にとって独創的であることと模倣は両立していたのです。
 模倣という概念は文学において重要です。それは、ただ新しい作品、優れた作品のために模倣が重要な役割を果たすと思われているからではありません。そもそも、能楽や文楽、歌舞伎という演劇はキャラクターの模倣です。そして、人生とは芸術の模倣であるという思想が文学にはあるからです。
 ある種、その最先端がTRPGであり、デジタルゲームであり、そして様々なカードゲームやボードゲームであったりします。それらは人生を模倣したものであり、そして人生はゲームを模倣します。
 その終着点として、ビジネスがあります。私たちは営業や事務、そして専門職のやるべきことを模倣により習得します。私たちは営業や事務、専門職、経営者などの役割を模倣することで習得して社会人となります。
 労働というのは、模倣により成立しています。
 この事実はビジネス文章や娯楽作品だけではなくて、古典もそれなりに学んでおいたほうが良いことを示唆するかもしれません。社会人としての能力に欠けているのはビジネス文章が読めないからではなくて、ビジネスマンになるための基本的な考え方が理解できないからかもしれないからです。会社の先輩を見て、その人格を推測して模倣する意欲がない人が社会生活を送るのは不可能です。
 模倣は文学のテーマそのものです。
 そのため、古典を考えることは模倣について考えることを助けます。

 二つ目の紫式部の重要な戦略は、外国の言葉を自分達の言葉に直すことです。
 日本書紀は中国思想を模倣するだけでなく、単語も模倣しています。日本では原則として外国語は常に高級で、土着の言葉は常に劣っているというのが常識でした(今も英語が話せることは素晴らしいことです! 本当です。嘘だと思うのでしたら、英語関係の広告の数を数えてみてください)。
 しかし、紫式部は中国語を自分達が話す日本の言葉で再創造して、新しい日本語を創造していきました。外国語の力を可能な限り保持して、紀貫之らと共に自分達の日常の言葉を革新させたのです。
 外国語を超える、新しい日本語の創造。
 日本で日本語が使われている以上、そして日本と世界に結びつきがある以上は私たちは英語や中国語、ドイツ語やアラビア語を日本語と結びつける必要があります。一人が全世界の外国語を習得するのは難しいからです。そして、私たちはどのようにして自分達の言葉を創造できるのかを平安時代の作家から学ぶことができます。源氏物語は、本で読んだ知識を仲間達と共有する方法の手本になります。
 古典を読めることに意味はないかもしれませんが、外国の言葉や難解な思想を自分のものにする能力、それを日本語にして他の人たちと共有する能力は現代においても重要です。日本語はあるものではなくて、また守るものではなく、常に現在と古典と外国語との関係から再創造されていくものです。私たちが古典に触れるときに、本当に学ばなくてはならないのは未知を日本にするその精神です。
 源氏物語は日本文学です。少なくとも、日本人が自分達で共有することを意図して制作されています。発信することではなく共有することが目的とされています。私たちは外国人になるために日本文学を必要とします。
 外国を賞賛したり拒否するのではなく、まさに自分達の人生を豊かにする精神が源氏物語には宿っているのです。


』『ゲーム制作のための文学』


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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