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カップの茶渋


予定がなくなった朝に

予定が急遽なくなって早起きした私は、普段行けない喫茶店に行くことにした。平日と土曜日の7時から15時頃までの営業だから、カレンダー通り仕事の私はなかなか行けないのだ。こじんまりしているが洒落ている、落ち着いていて中年の客層も多いイメージのその店。

私が入るとまだ客はいなくてひとりだった。カウンターに座り、モーニングコーヒー240円を見つめる。これにしよう。カウンターの向かいにいる店主に頼んでから、持ってきていたドミニック・ローホーの『バック・トゥ・レトロ〜私が選んだもので私は充分〜』を開いた。「どうぞ」と運ばれてきたコーヒーを口に入れる。

半分くらい飲んで、ふとあることに気がついた。外も内も真っ白でぽてっとした綺麗なカップ。さすが人気の喫茶店、品があるいいカップを使っているなあと思ったのだが、そんなカップの中にはコーヒーの渋がしっかりついていたのだ。「あ、意外とこういうの使うんだ」というのが素直な印象だった。人によっては汚れていると受け取るかもしれない。けれど、なんだか私はこのグラデーションに惹かれ、じっと見つめていた。


思い出のマグカップ

見つめていると、わたしの家のマグカップを思い出した。仕事を始めてすぐの頃に一目惚れして買ったカップ。地元の作家が作った鋳物。地元にもこんな素敵なものがあるのかと感激したのだった。震災や大雨の被害がまだ多く残っている地元を応援したい気持ちも強かった。購入してから4、5年が経って、そのカップも古くなってきたなあと感じていた最近。買った時の輝きは思い出せず、心が躍らないような気もして替え時かと感じていた。使い勝手は悪くはないのだけれど、なんだかヒビも見えて、底にコーヒーの色もついて…。

でも違う。そのヒビは、色は、私が使ってきた証。このカップの側で泣いた事、笑った事、そんな時を思い出す。1人で考え事をしながらカップでコーヒーを飲んだ。大切な人と食事した。たくさんの時間を共にしてきた。最初の輝きはないかもしれないけれど、このヒビも色も、唯一無二の私の物だ。新しいカップを購入した所で、また使い古したら買い換えるのだろう。このカップとの思い出は替えが効かない。新しいカップは、私のこれまでの時間を、大切な気持ちを、思い出すきっかけはくれない。

この店のこのカップも、何年その役目を担い続けているのか。今までどれだけの、どんな人たちが、このカップでコーヒーを飲んで癒されてきたんだろう。たくさんの人がこのカップと共に思い出を作り、この店の記憶の一つとなっているのだと思う。それがこのカップの茶渋となっているのだ。

消費社会の中で

消費社会の今、汚れたら捨てる、買い換える、新しい物に飛びつく、という消費活動が一般的かもしれない。しかし、それによってひとつひとつの物の価値が軽くなっているように感じる。そんな時代、なんだか生きた心地がしなくて、私のように疑問を抱いている人が一定数いるのも確かだと思う。それは、その活動に人間としての感情や気持ちが伴わないからだと思う。伴っているとしても薄っぺらいからだ。便利さや手軽さを優先した消費活動は人間の本質的な喜びを奪っている。一方で、長く使われる中でストーリー性を育んだ物や作り手の思いが込められた物達は、人の想像力を働かせ、感情を動かす。人を感動させる。それが、人間の本質的な幸せだと思う。

帰ってから改めてカップを手に持って眺めた。もう買い替えようなんて思わない。買った時の輝きとはまったく違うけれど、今は別の魅力がある。忘れていた頃とは違って、買った時の喜びも、感情も思い出せる。できるところまで一緒にいようと決めた。




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