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義務教育終了後の足跡⑨: 結婚話と適応障害

博士進学が決定していたものの博士進学の意味や目的を見失い、そんな中プライベートでは結婚話が浮上し、公私のバランスがおかしなことになっていたところまでは前回のnoteに書きました。

修士論文執筆中あたりから、自分でもメンタルを思うようにコントロールできていないことに彼女の協力もあり少しずつ気づいていて、大学の保健センターでカウンセリングを受けていました。
結婚の意思があること彼女の両親に伝えようということになったあたりから、不眠の症状が気になるということで精神科病院に通院することになり、そこで治療を受けることになります。

特別先生から病気の診断名を伝えられることはありませんでしたが、後々保険の契約関係でこの時に「適応障害」と診断されていたことを知ります。
気遣って伏せていてくれたのでしょう。確かに、この時にもし診断名を聞いていたらとても結婚の意思を彼女の両親に伝えようという気持ちにはならなかったと思います。

とても大学に行ける状態ではなかったので、当時ちょうど春休みに入っていたこともあり、研究室の先生に「少し休ませてほしい」とお願いし、休養に入らせてもらいました。先生も私の様子がおかしいことには気づいていたようで快諾してくれました。高校以来の不登校と言ったところでしょうか?休養なので少し違うかもしれませんね。

それからは家でじっとして過ごしたり、たまに散歩したり、あまり抑揚のない日々を過ごしていました。だんだんと心が落ち着いて気がしてきたなと思ったら、雨の日に急に涙が出てきたり。テレビを見ていると自分の時間だけが止まっている気がして辛くてテレビを消したり。病院に向かうバスの中で絶えず涙があふれたりもしました。理由はわかりませんが、振り返るとやはり精神的に限界だったんだなと思います。

実家に帰ったりもしました。大学に入学してからというものバイトやサークル活動が忙しくて盆正月もめったに帰ってこない私が急に帰ってきたので両親は驚いていましたが、いつもの様子が違う私を見て何かを察したのか、特に何も聞いては来ませんでした。1週間程度の帰省だった気がしますが特に何をしたわけでもありません。ただこの期間に母親に言われた、

「立ち止まることも人生には必要」

といった言葉だけは強く胸に残っています。休んでいることに罪悪感があった私にとっては何か救われるような気がしました。私の時間だけが止まっていることに焦燥感を抱いていましたが、この時間を止めることが必要なことだと思わせてくれました。

福岡に戻ってからは現状をどうにかしたくて、滝行に行ったりもしました。今思うとよく行ったなといった感じです。正直特に何も変わらなかったのですが、いい経験になったなと思います。滝行に行ったことのある友人はいないので。今では笑い話としてよくこの話をします。滝行については彼女にも伝えずに勝手に行って、行ってからもしばらく伝えてなくて、ある日ふと伝えたら大変驚かれました。当たり前ですけどね(笑)。そういうことは事前に伝えろと半分怒られているような感じになりました。

さてこの間、結婚の話はどうなったかというと、結婚の意思を彼女の父に伝えるために居酒屋を予約して二人で飲みにいく約束を取り付けたりしていました。彼女が一緒にいるとお義父さんが思ったことを言えないのではないかという、なんとも強気な理由でサシで飲むことを決めました。当時の私は本当に冷静に物事を判断する力が鈍っていたのでしょう。結果としてはこれがよかったのかもしれませんが。

というのも、この席の約束を取り付けてから当日の間にお義父さんの遠方への転勤が決まっていたのです。その転勤には心配なのでお義母さんもついていく。そうすると実家に彼女一人になってしまう。広い家に娘一人は心配なので可能であれば私に一緒に住んでもらいたい。ただの彼氏彼女が一緒に住んでいるよりは夫婦の方がいい。ということで結婚が決まったのです。こういったことは彼女がいたら言いにくかったでしょうし、二人でよかったな思っています。

そのまま迎えに来てくれた彼女に酔っぱらった状態でプロポーズしました。ロマンティックの欠片もないプロポーズではありましたが、泣いて喜んでくれたのでよしとしましょう。(あとからちゃんとプロポーズしました。)

プライベートは順調に進んでいるかのようでしたが、大学には行けていない状況。博士課程の学生の状態で結婚することをお義父さんは許容してくれましたが、博士進学の目的や意味が見えなくなっていること、大学にろくに行けていない状況であることは伝えられていませんでした。

公私のバランスは結婚が決まったことによりさらに崩れていたのです。

続きはまた今度

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