見出し画像

世界の名付け(前)

訳者コメント:
言葉が人類に何をもたらしたかを考えます。この節は長いので今回は前半。人類が言葉を手にする前から出していた「声」こそが「原初の言語」なのだという話です。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


2.3 世界の名付け

切り離された人間の領域が火と石の技術を中心に成長すると、並行してさらに強力なテクノロジーが成長していきました。私たちが言語と呼ぶ心のテクノロジーです。記号は、その記号が名づける対象、属性、プロセスと恣意的に結びついているだけですが、その記号が集まってできる言語は、まさに人間の領域であり、現実を表現する人工的な地図です。

言語は、知識の蓄積や人間活動の調整を必要とする技術よりも前から存在していました。ピラミッドから宇宙ステーションに至るまで、人類の文明がこれまでに創造してきたあらゆるものは、最終的には記号という土台の上に成り立っています。設計図や指示書、仕様書、ガイドライン、コンピュータープログラム、貨幣、科学文献、法律、契約書、日程表、データベースが無かったら、マイクロチップや水素爆弾、電波望遠鏡を作ることができるでしょうか? 空港や強制収容所を運営できる人がいるでしょうか?

テクノロジーについて、私は「まえがき」でこう問いかけました。「テクノロジーと文化の賜物を、その呪いからどうにかして切り離すことはできるのでしょうか?」上記の例で明らかなように、私たちは言語についても同じことを問うかもしれません。言語は切り離された人間の領域の基礎であり、最初から破壊的であると同時に創造的な力を持っていました。

言語の破壊的な可能性は、表現という本質そのものの中に含まれています。言葉、特に名詞は、無限にある固有の物体や過程プロセスを有限の分類カテゴリーに押し込めます。言葉はそれぞれの瞬間、それぞれの経験の独自性を否定し、「これ」や「それ」に落とし込みます。それが私たちに与えるのは、言及するものを(論理的に)操作し、コントロールする力ですが、そのとき犠牲になるのは直接の体験です。そのとき失われるのは、物事の本質です。特定のものごとを分類へと一般化することで、言葉はそれらの違いを見えなくします。AにもBにも木という名前ラベルを付け、その名前に慣れてしまうと、私たちにはAとBの違いが分からなくなります。名前は現実の認識や現実との関わり方に影響を与えます。

狩猟採集民は、一般的な名前が付けられる前の時代に近く、それぞれの動物、植物、物体、過程が持つ固有の神聖な魂を信じる精霊信仰者アニミストでした。木が木でなく、一つの独立した「個」であった時代を、私は想像できます。それが多くの木々からなる森の中のただ一本の木であるなら、切り倒すのは大した問題ではありません。かけがえの無いものが何か世界から取り去られるわけではありません。しかし、もしそれを唯一無二の個体として、神聖でかけがえの無いものとみなすなら、私たちは切り倒すのに細心の注意を払うでしょう。多くの先住民がそうするように、私たちもまた、こんな重大な行為を犯す前には瞑想や祈りを捧げてもいいのかもしれません。それは厳粛な儀式の場となるでしょう。それを正当化できるのは、よほど価値のある目的だけでしょう。いま私たちは、これらの固有で神聖な存在すべてを、ただ多くの木々に変えてしまったので、ほとんど考えもせず森全体を更地にします。

もちろん同じことが人間にも当てはまります。言語が持つ引き離しの働きが、搾取、残虐行為、殺人、大量虐殺を助長します。関係の相手が、「顧客」や「テロリスト」や「従業員」というような、一般的分類の一員に過ぎないなら、搾取や殺人ははるかに容易に起こります。人種蔑称べっしょうも同じ目的を果たします。いわゆる「被害者の非人間化」です。しかし、非人間化は分類という行為の全てから始まるのであって、「人間」という言葉もその一つです。これは名詞を廃止せよと主張しているのではなく、名詞が相対的には非現実的であることを心に留めてほしいだけです。統計、国の名、会計帳簿の数字といった、人間が作り出した抽象的な領域に迷い込み、それを現実のものと信じるからこそ、私たちは暴力を振るうことになるのです。

私たちがすべての顔を親密に知っていた時代には、「人間」として一般化する必要はありませんでした。私たちの祖先が体験していた豊かな親密さは、見知らぬ人々の中で暮らす現代の私たちにとって想像もつかないものでした。私たちの言葉の下に押し殺されているのは、社会的な豊かさだけでなく、官能的な体験の全てです。マーガレット・ミードはかつてこう言いました。「青と緑は違う色だと信じて育ってきた人々にとっては、もし2つの色が区別されていなかったらどう見えるのか、あるいは色ではなく濃さだけで考えるとどうなるのかを、想像することすら難しい。[12]」そして、もし色を表す言葉がまったく無かったら、私たちが見るのは、人間の目が識別できる何千万色もの色で描かれた世界ではないでしょうか? そのような世界はどれほど豊かで生き生きとしていることでしょう。まさに一瞬一瞬が視覚の饗宴です。おそらく、世界から私たち自身をどんどん抽象化していくことには言語が絡んでいて、それが理由で「15年前なら人々は30万の音を聞き分けることができたのに、今では多くの子どもたちが10万に届かず、平均は18万にとどまります。20年前なら平均的な被験者は特定の色の350の色合いを感じ取ることができた。現在その数は130です。[13]」世界に名前をつけ、抽象化し、落とし込むことで、私たちの知覚は貧しくなります。言語は、今日の科学と産業を支える標準化、一般化、抽象化の基礎であり、モデルなのです。科学において、それは基本素粒子という特徴のない基質に一般的に当てはまる普遍的な法則があるという仮定です。産業では部品や工程の標準化です。そして私たちが支払う代償は、存在の根源にある本来の豊かさを失うことです。

時おり、言語などの表象システムに仲介されない知覚を、一瞬だけ垣間見る幸運に恵まれることがあるでしょう。世界は言葉で言い表せないほど豊かな音と色彩で躍動しています。その状態を説明したり、解釈したり、利用しようとしたとたん、私たちは目の前の現実から遠ざかり、その体験は消えてしまいます。記号による表現を通して世界を間接的に解釈する習慣は、現実の栄光から私たちを常に遠ざけます。

言語が私たちを現実から遠ざけるという認識は、何千年も前、少なくとも老子の時代にまで遡ります。老子は『道経』の冒頭でこう書きました。「みちの道とすべきは、つねの道にあらず。の名とすべきは、常の名に非ず。(言葉にできるような道は本当の道ではない。名前を付けられるような名前は本当の名前ではない。)[14]」スピリチュアルな聖典として世界で最も偉大な古典の最初の一行は免責事項、つまり真理を表す言葉の不十分さについての戒めなのです。

仏教経典の中で最も重要な著作のひとつである『般若心経』にも、「すべての教えの空虚さ」についての同じような警告があります。真理は教えの言葉の中にはなく、言葉そのものに真理が含まれていると考えるのも間違いです。

一方、古代人が認識していたのは、言語には人を引き離し惑わせる傾向と並んで、創造的な側面のあることでした。大昔に〈原初の言語〉が存在したことをほのめかす脈絡が神話の中にあります。それは、何らかの形で現実を象徴化したり抽象化したりするのではなく、それ自体が現実の一部である本当の言語でした。おそらくこの言語は、デリック・ジェンセンが言うところの「言葉よりも古い言語」で、野生動物の発声に似たものです。この言語は今ではほとんど失われてしまいましたが、少ないながらも生き残っているのは身体と精神に原始的な残響を引き起こす叫びで、「ジャジャーン(Tada)!」「ヤッホー」「ワオ!」「アーメン!」「ああ」「おーう」のような言葉です。これらの言葉の中には、サンスクリット語に直接の語源を持つものもあります。実際、サンスクリット語は現実を表す原初の原語に他のどの言語よりも近いという特別な地位を主張する人々がいます。ヒンドゥー教の詠唱を経験した人なら誰でも証言できるように、サンスクリット語の単語やフレーズはしばしば、文字通りの意味とはまったく異なる感情的な共鳴を呼び起こすことがあります。サンスクリット語を知らない人が聞いても強い影響を受けることがあります。「オーム」、「アー」、「ラーム」などの言葉は、神を表したり表現したりするものではなく、実際に神の様々な姿であると考えられています。この点を理解するのは二元論的な心にとって非常に難しいことです。

同じ共鳴は他の古代言語にも見られます。ヒンドゥー教と同じように、道教においても、ある種の音には文字通りの意味とはまったく別の精神的・霊的な力が宿っています[15]。このような言葉の正しい発音が、ある気功法では非常に重要だと考えられています。もし音が従来の意味での「意味」を本当に持っているとしても、その意味を知るだけでは十分ではありません。「やったー(yippee)!」や「ワオ!」と同じで、音が意味なのです。ユダヤ教でも、ある言葉の神聖な力はその音から生じると考えられています。理解できないまま聴くだけでも、聴き手には心理的変化を引き起こせるといわれています。

北米先住民の言語についても、同じような主張がなされています。ジョセフ・エペス・ブラウンはこう語ります。「ネイティブ・アメリカンやイヌイットの言語には、豊かな言語表現と非言語表現が混在している。[16]」それはつまり、音と言葉の区別は、現代語ほど明確には考えられていないということです。さらに、「話し言葉や名前は、英語のように象徴的あるいは二元論的に理解されるものではない。…(音と意味を)このように分離することができないネイティブ・アメリカンの言語では、音と意味の間に不思議な同一性が存在する[17]。」そのような言葉は単なるラベルではないため、この言語における名前と名詞は、名づけられた存在の本質的かつ不可分の側面なのです。「ある存在、あるいは創造のあらゆる側面や機能を名指しすることは、その現実を顕在化することである。[18]」

そのため、伝統的なネイティブ・アメリカンが物事の本当の名前を使うのは細心の注意を払うときだけなのです。たとえばクマの名を口にすると、実際にクマの存在を呼び起こすことになるからです。発話の持つ創造的な力は、またもや二元論的な心には理解しがたいものです。(言っただけで本当に何か変わるわけがないでしょう?)でもその名残は、現在まで残っているある種の「迷信」に見て取れます。中国文化には、暗い可能性を現実に持ち込まないように、それを声に出して話すことに対する強いタブーがあります。アメリカでさえ、まだ魔除けに木を叩くという習慣があります。

言葉は客観的な現実に貼られた勝手なラベルではなく、創造的な力を持っているという考えは、ヒンドゥー教における特定の音と神の力との関連付けや、聖書における言葉と神との同一視や、呼吸と精神がほぼ普遍的に同一視されていることにも現れます[19]。言葉が特別な呼吸でなくて何なのでしょう? 言葉が意図的な呼吸であり、意味を持つ呼吸であり、創造的な呼吸であるのは、言葉がなければただ存在するだけの世界に、意味を吹き込むからです。私たちは言葉にすることで、自然という材料から人間の領域を現実化しますが、それは創世記の神が言葉によって物質世界を生み出したのと同じです。神の形に作られた私たち人間は、世界を言葉にすることで作り出します。

ではなぜ、現在の言語はこれほど無力で効果がないように見えるのでしょう? なぜ話が安っぽくなってしまったのでしょう? あの創造的な力を持った〈原初の言語〉はどうなってしまったのでしょう? どうして創造的な呼吸は、いま私たちがどっぷりと陥っている嘘のマトリックスへと堕落してしまったのでしょうか?

最初には、いま私たちが知っているような言葉はなく、何かを表す声はなく、人間という動物の叫びがあっただけでした。この〈原初の言語〉はどんなものだったでしょう? じつは、それは今でも私たちの手の届くところにあります。それは慣習的なものではなく、現実の一部なので、〈原初の言語〉は決して取り返しのつかない形で失われることはなく、一時的に忘れ去られるだけです。それは私たち全員の心の奥底に閉じ込められていて、文明の抑制を捨てればいつでも姿を現す準備ができています。そのような機会のひとつが、もちろん愛の営みです。情熱的な性的奔放から発する声は、〈原初の言語〉が記憶していることにほかなりません。このような言葉は、普通の言葉が持つような意味を持ちませんが、無意味とも言えません。それはどんな意味のやりとりよりもはるかに正直で親密なコミュニケーションを媒介しているのです。道教とタントラの伝統は、このような言葉を研究してきたようですが、私は公開されている文献の通り一遍の言及や表面的な記述以上のものを知っているわけではありません。しかし、現代の心理学者ジャック・ジョンストンは、高度なオーガズムを通じた性的癒しの強力なシステムを開発しました。そこで用いられるのは、「あぁ〜・あぁ〜」というような、中間で転がるような書き取りにくい基本音です。重要なのは、ジョンストンが「直感的な探索」によってこの音を発見したことで、彼がそれを発明したのではなく、人間であることに内在する潜在能力を発掘したのです[20]。これは再合一の時代のテクノロジー(あるいは反テクノロジー)の完璧な例であり、コントロールや分断を基にしません。

激しく感情的な体験が〈原初の言語〉の発話を誘発することもあります。それは、恍惚、嘆き、歓喜、恐怖、怒りなどの自発的な発声や、乳児が発する「あー、うー」という声などです。それが出てくるのは、言葉だけでは自分の感情を表現しきれないときや、感情が文化の抑制に打ち勝ったとき、つまり、我を忘れたときです。それは本当のところ言葉ではありません。それは音であり、叫びであり、人間という動物の呼び声です。文法から意味を導き出すようなものでもなければ、慣習に従うものでもありません。

〈原初の言語〉が普通の会話から完全に消えたわけでもなく、それは現代語に染み通っていて、言葉の背後にある声とも呼べるようなものです。言語学者イヴァン・フォナギーは、専門書『言語の中の言語:進化的アプローチ』で、それを記述する一歩を踏み出しました。フォナギーの功績は、音と意味の対応関係を言語間で実証する統計的アプローチを開発したことでした。例えば、英語でもフランス語でもハンガリー語でも、light(軽い)、above(上)、cheerful(明るい)、pretty(きれい)などの概念を表す単語には、その反対語よりも前舌母音が多いことを発見しました。love(愛)、tender(優しい)、soft(柔らかい)、good(良い)、sweet(甘い)は軟子音が優勢で、anger(怒り)、wild(荒々しい)、hard(硬い)、bad(悪い)、bitter(苦い)は硬子音が優勢です。個々の発音は無関係に見えますが、統計的な共通点から言語以前の音声コミュニケーション様式を垣間見ることができます。彼はまた、さまざまな感情を表現するとき多くの言語で共通する調音器官の変化をいくつか挙げています。優しさを表すとき唇は突き出して丸くなります。憎悪と怒りの表現では舌が引っ込み、また咽頭は収縮し、息を吐く力に比べて押し殺された音の強さも特徴です[21]。

言葉の文字通りの意味は、本当の状態を伝える声の抑揚を曖昧にしてしまい、私たちは声に耳を傾けるのではなく、言葉に耳を傾けるように教えられてきました。しかし、私たちの一部、通常は意識の下にある深い原始的な部分は、今でも声に同調し、言葉よりもはるかに正直に伝わります。最も単純な例は感情的な叫びにあります。フォナギーは次のようにコメントします。「〈感情的な音素フォニーム〉がもたらす効果は、音素規則違反による〈奇妙さ〉に起因するのかもしれない。むしろ、これらの音のジェスチャーが切り捨てられることはなく、恣意性という一般的なルールから外れているという事実がその影響力を生み出しているので、人々はその効果を享受できるのだと私は思う。しかもそれらは〈意味を持ち〉、現実の(非言語的な)物理的または精神的現象と自然な(多かれ少なかれ狭い)つながりで結ばれている[22]。」発話の主な影響が(声ではなく)言葉にあると考えるとき、私たちは自分自身を欺いているのであり、それは自分の決断に論理的な理由を挙げて自分自身を欺くのと同じで、実際には合理化や正当化なのです。(論理ロジックと言語の間のこの結びつきは、ギリシャ語の語源であるロゴスに具現化されています。それは、論理、法律、言語など、外から押し付けられたものを意味しますが、その反対に声は内面から出るもので、実際には呼吸の一つの形、つまり精気なのです。)

論理、法律、テクノロジーと同じように、言語に内在するコントロールは見せかけです。私たちは世界全体に注意深くラベルを貼り、分類し、それによって秩序を課し、野生を家畜化することを望んでいますが、野生が私たちの境界を尊重すると考えるのは、私たち自身を欺いているのであり、リスが「立入禁止」の標識に敬意を払う以上のものではありません。今に至るまで、より多くのことを伝えるのは話ではなく声の方です。

この〈原初の言語〉は、「理性の時代」の哲学者や言語学者たちの誤った探求の対象となり、彼らはこれを〈アダムの言語〉と呼びました。記号大系としての言語以上のものを見ることができなかったライプニッツらは、現実に完全に対応する言語の再発明を目指し、そうすれば文法によって真理を見分けられると考えました。もちろん、彼らの企ては大失敗に終わりましたが、それは〈原初の言語〉が完全な表象[つまり再現描写]のシステムではなく、非表象システムであることを、彼らが理解していなかったからです。にもかかわらずライプニッツの企ては、科学の専門用語や業界用語を通して、世界をより細かくラベル付けすることで今も続いています。それはバベルの塔の別の型であり、現実世界の無限性に張り合おうとする人工構築物なのです。

イヴァン・フォナギーは、原始的な言語に私たちの存在論的な思い込みを投影する様子を、彼が見た例を挙げて示します。「あらゆる段階の発音に伴う感情表現が、関連性のない言語においても広範囲に類似していることから明らかなのは、感情的な発声行動に現れる基本的な傾向が、特定の言語に固有のものでないことである。それらを支配するのは《周辺パラ言語的な記号体系》であるようだ。」[強調は原文]

フォナギーは言語について従来の二元論的解釈を採用し、こうした言語間の共通性こそが、通常の意味論的なものと並ぶ記号のシステムであると仮定しています。しかし、おそらくフォナギーが「自然言語」と呼ぶものは、まったく記号論的なシステムなどではないでしょう。例えば、怒りや憎しみで痙攣するような舌の動きは、そこに表現された言葉の意味と並んで、怒りを表す合図の別のシステムの一部であると解釈します。しかし、これらの表現は実際にはまったく「表現」ではありません。怒りを表しているのではなく、怒りそのものです。それは、ホルモンの分泌、血管の拡張、心拍数や呼吸の上昇などを等しく含む、身体的状態の一部です。記号としての言語とは異なり、これらの発声はそこに込められた感情から私たちを遠ざけるものではありません。あるいはソローが言ったように、「ほとんどの場合、話すよりも泣く方が良く、声をかけるよりも手でつまむ方が、自然からより多くを学べる」のです[23]。

ジョン・ザーザンはこう書いています。「人間がしゃべったとたん、人は切り離されたのだ。この断絶は、人類と自然との間の原初の一体性が崩壊する瞬間である。」彼が暗示しているのは、破滅的な分離の瞬間、大失敗、[キリスト神学でいう]「堕落」です。しかし私たちは、ほとんどの哺乳類や鳥類、さらには多くの爬虫類や昆虫と同じように、常に声を発してきましたし、動物の鳴き声に意味がないなどと考えるのは実に傲慢なことでしょう。ネイティブ・アメリカンのトラッカー[森の生き物の足跡を追いかける伝統的なサバイバル技術の熟達者]の話には、動物の鳴き声を解釈する能力がまるで魔法のようだというものがあり、古代人が動物と話すことができたという伝説はどの文化にも数多く残っています。

人間の領域が徐々に自然から切り離されていくにつれ、人間の発話の元々の語彙は不十分になっていきました。新たな対象、新たな区別、新たなプロセスが生まれ、自然との間に新たな客観的関係も発見しました。ゆっくりと、しかし着実に、言語は拡大する二元論を伴うようになりました。自己と他者、人間と自然、名前と物は、別のものになったのです。

後半につづく

前< 火と石器
目次
次> 世界の名付け(後)


注:
[12] マーガレット・ミード [Margaret Mead,] Male and Female: A Study of the Sexes in a Changing World, William Morrow Publishing, 1949. p. 20
[13] ジョセフ・チルトン・ピアース [Joseph Chilton Pearce.] The Biology of Transcendence, Park Street Press, 2002. p. 111. ピアースはこの能力の減退の原因の大部分をテレビのせいだとしますが、大いに有りうる犯人ではあります!
[14] この現代語訳で「本当の」というところは「永遠の」と表現されることが普通だが、中国語の「常」には非常に複雑な意味があり、永続性、永続性、したがって現実的である、真実であるという意味合いを持つ。
[15] これらの音は、少なくとも紀元前200年の「五獣の戯れ」までさかのぼる、気功に関する最も初期の著作のいくつかで言及されていて、今も実践されている。
[16] ジョセフ・エペス・ブラウン [Brown, Joseph Epes,] Teaching Spirits, Oxford University Press, 2001. p. 42.
[17] 同上, p. 43-44.
[18] 同上, p. 45.
[19] サンスクリット語で「プラーナ」は息と魂の両方の意味を持つ。中国語の「気」も息と精気の両方を指す。同じ言葉が日本語と韓国語でも使われる。古代ヘブライ語やアラビア語にも同じ同一性が存在すると聞いている。英語でも、"respiration"(呼吸)という単語は、文字通り、自分自身に精神を吹き込み直すことを意味する。
[20] ジャック・ジョンストン [Johnston, Jack,] Male Multiple Orgasm (audio CD), Jack Johnston Seminars, 1994
[21] イヴァン・フォナギー [Fonagy, Ivan,] Languages within Language: An Evolutive Approach. John Benjamins Pub., 1994. p. 18, 87-106
[22] 同上, p. 5
[23] ヘンリー・デイヴィッド・ソロー [Thoreau, Henry David,] A Week on the Concord and Merrimack Rivers, 1849. p. 88


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2-03/


2008 Charles Eisenstein



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?