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世界の名付け(後)

訳者コメント:
 直接体験が声に出た「原初の言語」に名詞は有り得なかったが、現代に向かって世界に名前を付け続けることで名詞が増えてきた。そうやって世界をカテゴリーに落とし込み、客体(他者・モノ)として切り離してきたのだけれど、その極みとして言葉は嘘に満ちていることが誰の目にも明らかになってしまった。それでは私たちは言葉を手放し原初の言語に戻るべきかというと、そうではなく「物語を語り伝える」という古来からの機能の重要性がさらに大きくなるという主張です。
 日本語で「チーズバーガーになります」という表現が増えているのも、話者と現実世界の距離感を遠くするという一連の流れの中にあるのかもしれません。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


前半からつづく)

人類の上昇は慣習的な記号の言語への下降であり、その言語は現実と一体となった声という次元ではなく、単なる現実の表象です。この段階的な引き離しは、言語が媒介的な機能を担うことで、人間と自然の全般的な分離と並んで進み、その一因となり、その結果として生じたものです。自然のものに名前を付けたいと望み、あるいはそうしようなどと思い付くのは、個別ばらばらの自己です。名前を付けることは支配することであり、分類することであり、服従させることであり、文字通り客体化、つまり物扱いすることです。『創世記』では、アダムが神から与えられた動物に対する支配権を確認するための最初の行為が、動物に名前を付けることだったのも不思議ではありません。支配を可能にした自己の観念が現れる前に、名前はありませんでした。原初の声は、どれも名詞ではありませんでした。

興味深いことに、古代の言語には現代語に比べて名詞が圧倒的に少なかったのです。名詞がなかった原初の古代言語から始まって、新石器時代には動詞が単語全体の半分だけになり、現代英語では10%以下にまで減少したという主張があります[24]。この傾向は現在まで続いていて、動詞の受動的・自動詞的用法が増加するにつれ、実質的に「AはBである」ということによって現実を客体化・抽象化します。言語の進化が向かう先は、記号、つまり言葉により互いに定義される言葉への無限の退行で、それが私たちを世界から引き離します。意義深いのは、先住民族の言語の中には「である」を表す単語を持たないものがあって、シャーマンのマルティン・プレヒテルは、少なくとも2つのネイティブ・アメリカン言語についてそうだと主張しています[25]。また私が気づいたのは、産業以前の社会にしっかりと根ざした古代中国語の方言である台湾語には、現代の北京語や英語には存在しない、あるいは消えてしまった描写的な動作語が驚くほど豊富にあることです。英語でも同じ傾向が見られ、単純現在形は現在進行形にだんだん置き換わりつつあります(「I walk(歩きます)」というところを「I am walking(歩いています)」というように)。[訳註:ここでのポイントは現在進行形がbe動詞「である」を使っていることで、動作の記述が状態の記述に変わることで客観化が進むという主張。]

現代の思想家の中には、この傾向を逆転させよう、あるいは元に戻そうとする者も少なくありません。アルフレッド・コージブスキーは、その大著『科学と正気』の中で、1000ページ以上を費やして、同一性を示す「である」の乱用を非難し、それが物事を他の物事に還元してしまうとし、彼が考える新しい「非アリストテレス的」な思考のあり方を提案します。彼は、(老子など)多くの神秘家がこの洞察において何千年も先行していたことを知らなかったようです。それでも、1920年代に書いたコージブスキーが時代を先取りしていたのは確かで、彼が立ち上げに貢献した神経言語プログラミングという運動は、新しい言語パターンによって精神的健康(つまり正気)に誘導しようとするものです。最近では、物理学者であり賢人であるデイヴィッド・ボームが、レオモードと呼ぶ新しい言語様式を提唱していて、これは特に減少しつつある動詞の形を回復させることを目的とし、それによって物事ではなく過程プロセスの観点から宇宙を理解することを促進するものです。「レオモード」はボームが量子力学の解釈を紹介しようとした著書『全体と内蔵秩序』の最初の章の標題です。彼が示唆していることは、レオモードこそが根本的に統一され相互に結びついた全体である物理的現実の真の性質と一致する唯一の話法だと、理解できるかもしれません。ボームの考えでは、世界を人為的に主体と客体に分けることは、本質的に辻褄の合わないことなのです。私は切り離された私ではなく、私は宇宙が「チャールズしている」姿なのです。

表象言語への転落がいつ始まったのかは、おそらく分からないでしょう。舌骨、拡大した胸髄、舌下神経を舌に伝える開口部の拡大などの解剖学的証拠を引いて、古生物学者が言語の起源をたどると、ネアンデルタール人が言語を持っていたのは確実で、おそらくホモ・エレクトゥスやそれ以前にまで遡ります[26]。これはノーム・チョムスキー、スティーブン・ピンカー、ジュリアン・ジェインズのような理論家の見解とは対照的に異なっていて、彼らはその年代を後期旧石器時代の3万~5万年前としています。その元になっているのは、テクノロジーや芸術などの同時発展が意味する認知の発達と言語との関連性です。しかし、どちらの陣営も言語を「記号化された語彙と構文」と見なしていて[27]、それはつまり表象のシステムです。

この点で、石器時代の社会ではいったい何を話していたのだろうかと問いたくなるかもしれません。研究者の主張の中には、中期旧石器時代の刃物の製造に必要な200種類以上の打ち方を教えるために音声が必要だったというものもありますが、このような技術を学ぶには説明よりも観察と模倣の方が向いています。また、狩猟は武器が発達してから始まったものですが、狩人の動きを調整するために音声が必要だと主張する人もいます。しかしここでも、狩人に利益をもたらすのは、ふつう発話よりも沈黙です。それに、オオカミや群れで暮らす他の動物たちは、言葉がなくても狩りをするようです。しかし、どれほど生存の助けになるかという理由だけで全てを説明しようとする罠には落ちないようにしましょう。狩猟採集時代に言葉を話す理由が他にあったでしょうか?

そもそも、言葉は必要から生まれたものではないという可能性はないのでしょうか? 言葉のもつ重要で古くからある機能は、遊び、冗談、そして物語を語ることです。おそらく、これが言語の起源なのです。おそらく、分断の道具としての機能は、他の文化やテクノロジーが人を遠ざけるように発展するのと歩調を合わせ、徐々に大きくなってきたのです。

ごく最近まで、人類はふつう20人以下の親族集団で生活し、おそらく数百人規模の部族とゆるやかに結びついていました。自然や人間どうしに心を開いていた彼らは、現代の私たちが想像もできないような親密さでお互いを知り合っていました。恋人どうしや母親と赤ん坊の間でよくあるように、言葉など余計なものだったかもしれません。人のことをそこまでよく知っていれば、その人が何を考え何を感じているか、聞かなくても分かるものです。言語以前の時代にはなおさらで、私たちの共感能力はまだ言語という媒介装置によって曇らされていませんでした。二人だけ、あるいは少人数のグループ以外に誰もいない状況で沈黙の時を過ごしてみて、数日か数時間後に感じる親密さが、会話をしていた場合に比べで強いかどうかを観察してみましょう。そのような状況で育まれる他者への共感と直感的理解は驚くほどのものです。[28]

したがって、言語が必要になるのは、他の形の分断が私たちの直感的な結びつきを鈍らせ、同時に人間の活動の複雑な調整が求められるようになってからだと推測できるかもしれません。特に関連が強いのは分業で、石器時代後期にはもう進行中といえないまでも始まっていて、それがもたらしたのは「物事や出来事の標準化と、専門家が他者に及ぼす力でした。…分業が必然的に伴うのは、集団行動を比較的複雑にコントロールすることであり、コミュニティ全体を組織化し指揮することが実質的に求められるのです。[29]」物事を標準化することは、それを抽象化し名前を付けることと自然に一致します。それはテクノロジー全般を中心に成長した、切り離された人間の領域のかなめであり、分断から生まれ、分断を強化します。言語を考えるとき、この章で説明する分断の他の全ての要素から切り離すことはできず、広範で包括的なパターンの一部としてしか考えることはできません。

話し言葉はこの分裂の始まりに過ぎませんでした。声は話し言葉の中に必然的に生き続けますが、コントロールされ洗練された話し方であればあるほど、より深く覆い隠されます。したがって文字の発明は、〈原初の言語〉から離れ、直接的なコミュニケーションを恣意的で抽象的な記号によって完全に置き換えることへと向かう、大きなもう一歩でした。文字と具体的な物や過程プロセスとの断絶は徐々に進み、最初の象形文字から次第に抽象的な形へと変化し、最終的には完全に非象形的なアルファベットへと至りました。アルファベットは私たちの考え方を微妙に、しかし広範囲に変化させました。「アルファベットは自然を抽象的なものへと体系化し、それを切り取って非人間的に管理します。[30]」ピクトグラム(絵文字)とは異なり、アルファベットの単語は、それを分解し分析することで意味を理解できます。一方ピクトグラムは、現実世界と似ているところからその意味を導き出します。したがってアルファベットは、意味の、ひいては宇宙に対する原子論的な観念を助長します。

文字に書くことで声は消え、その代わり目に見える話し手から切り離された紙の上のインクという見かけ上の客観性が現れます。書き言葉はそれ自体が独立した存在として存在し、もはや特定の聞き手に向けられてはいません。書き言葉が助長する錯覚は、そこに客観的な意味、つまり定義があって、話し手と聞き手の状態には左右されないというものです。書き言葉の見かけ上の客観性は、人々が聞いたことよりも読んだことを信じる傾向のある理由を説明しています。書かれた言葉は権威があるように見えるのです。辞書は比較的最近の現象ですが(西洋で最初の重要な辞書は17世紀と18世紀に編纂されました)[31]、話し手と聞き手の相互作用とは別に、言葉が固定された客観的な意味を持つという幻想をさらに裏付けています。同じように書物が具体化するのは、知識が個人の外にあるという信念です。文字のない社会なら、知識のありかを人の内面に求める傾向が強かったことでしょう。

印刷と電子メディアは、意味と話し手の間の隔たりをさらに極端なものにしますが、手書きの言葉には声がないとしても、少なくとも「手」、つまり筆跡があります。どんな筆跡も固有のものであり、注意深い読み手には書き手の感情的、精神的な状態が伝わります。活字はこの筆跡を大量生産品で置き換え、〈原初の言語〉が入り込む余地はほとんどありません。でもそれはまだ残っていて、意味の下にある文体の特異性という形で抑えがたく現れ、それを私たちは無意識の知恵に従って「書き手の声」と呼び続けます。したがって、文法や用法の標準化、専門用語や型にはまった言い回しへの退行、そして企業や政治家の記者発表のような一般向け演説が全般的に当たり障りの無いものになっていくことは、言語から音声を除去する最終段階であると見ることができます。その目標は、言葉が人の手で書かれたものではなく、純粋に客観的な事実として存在しているように装うことにあるようです。実際、一人称を使うのは学術的な文章では悪い書き方とされています。まさに、本作品の著者が滑稽だと見る慣習です!

抽象的な表現体系の中で他の言葉によって定義された言葉は、私たちを不自然で人間化され飼い慣らされた有限の世界に閉じ込め、その象徴表現を操作しコントロールするのと同じように、現実を操作しコントロールできるという錯覚に陥りやすくします。でもその地図は、必然的に写されたものの部分的で歪んだ表現でしかないので、地図に基づいた私たちの操作は必ず予期せぬ結果を大量に生み出します。それがテクノロジーの予期せぬ結果です。私たちが言葉を現実と取り違え、記号と現実が完全に一対一で直線的に対応していると思い込んだりすると、記号は具体的で客観的な地位を担い、不当な権威を与えられます。(特にその言葉が書かれたもので、特定の話者から切り離されたものならなおさらです。)受動態の乱用がこの傾向をさらに悪化させます。話者は消失し、過程プロセスが物になり、なることが存在となり、非人間的な力が不活性な物体に作用します。古典物理学との類似は非常に印象的です。言葉には話し手と聞き手、読み手と書き手から独立した客観的な意味があるという考えは、独立に存在する「物体」が観察者から独立した現実を持つというニュートン・デカルトの宇宙観と完全に一致し、それに付随するものです。ジョン・ザーザンはこのように言います。「イデオロギーと同様、言語はその象徴化する力によって、誤った分離と客観化を生み出す。この改ざんは、物理的世界への主体の参加を隠し、最終的には無効化することによって可能となる。[32]」世界は物体になるのです。

ソローはこう言いました。「真実を語るには二人必要だ。一人は語り、もう一人は聞く。[33]」しかし、この誤謬が一般の意識に浸透し始めたのはごく最近のことで、その結果として言語の意味が全体的に崩れ落ちました。言葉はますます意味を失いつつあります。政治の世界では、選挙運動中の候補者たちが自分の行動や政策とまったく矛盾する言葉を口にして平然としていることが多くなり、そのことに誰も異議を唱えず、気にもしていないように見えます。印象的なのは、政治家の日常的なごまかしではなく、むしろそれに対する私たちのほぼ完全な無関心の方です。私たちは広告コピーの空虚さにもほとんど完全に慣れっこになり、その言葉は読者にとってますます何の意味も持たなくなっています。ゼネラル・エレクトリック社が「人生に良いことをもたらす」と本気で信じている人がいるでしょうか? 今日私が通りかかった住宅地、「ウォールナット・クロッシング」には、実際にクルミの木や交差点があるのでしょうか? ブランド名から広報スローガン、政治的な合言葉に至るまで、現代生活に氾濫するメディアの言葉は、ほぼ全て微妙な嘘や誤誘導、人心操作でできています。私たちが「本物」を渇望するのも無理はありません。

そこら中の人々が意味の探求について語りますが、それが言葉の中に見つからないことを分かっています。おそらくここに、過去半世紀にわたる米国の識字率の驚異的な低下の理由があるのでしょう。一般的には教育の失敗や社会崩壊の兆候とみなされますが、少なくとも部分的には反抗の一つの形なのかもしれません。言葉に対する不満もまた、若者の会話に「〜みたいな」や「〜でしょ」が氾濫する理由かもしれません。より好意的な見方をすれば、「みたいな」を使うことで、「AはBだ」に内在する誤った同一性を否定していることになります。「でしょ」については、より直感的なコミュニケーションのあり方を模索しているということではないでしょうか? 聴き手が言葉の意味を理解できなくても、その背後にある声に耳を傾けるなら、もう確かに分かっているのです。

言葉の文字通りの意味が崩壊しているもうひとつの兆候は、「すごい」、「驚くべき」、「信じられない」といった言葉が、実際には些細で退屈で平凡なことを説明するため日常的に使われることです。私たちは言葉を使い果たし、あるいは言葉が意味を使い果たし、その結果コミュニケーションのためにますます大げさな表現を使わざるを得なくなっているのです。

他のすべてのテクノロジーと同じように、もう言語もあまりうまく機能しません。自然をコントロールする〈テクノロジーの計画〉と同じように、完全に合理的で、客観的で、論理的な表象のシステムを提供し、それを厳格に用いれば現実を正確に知ることができるという約束は、今ではうつろに響きます。どのような技術的対策も、何らかの変数を無視したために、予期せぬ結果や新たな問題を常に生み出すのと同じように、どのような言語や象徴の体系も、現実を歪め盲点だらけにした結果、誤りと誤解を生むのは避けられません。世界をコントロールしようという試みは無益なことです。これまであまりにも長い間、私たちは支配が失敗した結果を改善しようと、さらなる支配や技術的解決策を押し付けてきました。これを言語に当てはめると、より厳格に、より多くの定義、より多くの名前を与え、現実をより細かく分類することと同じです。いま私たちはついに言語というテクノロジーの計画が崩壊するのを目の当たりにしているのです。

言語の腐敗がますます明白になっているのは、災難のようでいて実は幸いなことです。それは、言葉で表現するよりも、その時その時の体験に基づく非言語的なやり方のコミュニケーションのほうが確かだということが、いっそう明確になるからです。このようなコミュニケーション様式には、宇宙の抽象化、命名、象徴化が内包する引き離しとは対照的に、自己と世界の間にある壁を手放すことが必要になります。恋人の目を見つめるとき、最も確かなコミュニケーションが生まれるのは、お互いが仮面や虚飾を捨て、メッセージを送ろうと努力するのをやめ、ただ相手に心を開いたときです。他者や世界から自分自身を切り離しておこうとする膨大な努力を私たちがついに手放したとき、言葉は必要なくなるのです。

必要性が減っても、時代遅れにはなりません。言語の発達は間違いや原初の失策ではなく、テクノロジーと同じように、動物の起源から徐々に、そして必然的に進化してきたものです。表象への転落は運命づけられていました。そうであるなら、分断の道具としての機能以外に目的が隠されていないか考えてみましょう。癒やされた世界での言語の目的は何でしょう? それは、これまでずっとそうだったように、物語を伝えるためです。これは取るに足らない働きではありません。私たちの文明全体が物語の上に、自己の物語の上に成り立っています。切り離された人間の領域は、実際には切り離されたものではありません。それが地球をどう変えたか見れば分かります。将来には、私たちは世界を創造する力である言葉を意識的に行使し、新しい物語を語り、そうして人類の発展に意識的な創造の段階を切り開くでしょう。


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注:
[24] アーサー・ジギスムント・ダイアモンド[Diamond, A.S.,] The History and Origin of Language. New York, 1959. Cited in Zerzan, p. 33
[25] デリック・ジェンセンとの対談、初出は2001年4月の『ザ・サン』紙。 http://hiddenwine.com/indexSUN.html に再掲。
[26] スティーブンオッペンハイマー [Oppenheimer, Stephen,] Out of Eden, Constable and Robin, 2004. p. 30
[27] 同上, p. 25
[28] 現在の自分を言語以前の環境に逆投影することは、誤解を招くだろう。私たちが経験するフラストレーションや不都合は、私たちの直接的な知覚が萎縮した結果なのかもしれない。萎縮してはいるが、まだ退化した形で存在し、再発達は可能だ。
[29] ザーザン, p. 36
[30] ジェームズ・バークとロバート・オーンスタイン [Burke, James and and Robert Ornstein,] The Axemaker’s Gift, Jeremy P. Tarcher/Putnam, 1997. p. 68
[31] 興味深いことに、中国初の辞書は紀元後1世紀に編纂された。
[32] ザーザン, p. 32
[33] ソロー, p. 218.


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2-03/

2008 Charles Eisenstein



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